橿原市の県立考古学研究所の博物館を訪れた。驚いたのは復元された巨大な円筒埴輪群。4世紀の前期古墳とされるメスリ山古墳より出土した大型円筒埴輪は、高さが2.4m、その巨大さに唖然とする。
 大和盆地は国家発祥の地。かつての為政者は巨大な墳墓を築いて権威を示そうとした。前方後円墳の政治的な思惑。そして、その上には巨大な円筒埴輪を林立させて見るものを圧倒した。
 前日に訪問した桜井市の埋蔵文化財センターでも展示室の入口に巨大な甕壺が置かれていた。当に、巨大化が大和盆地の感性ともみえる。

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箸墓、後方は三輪山。
 
 纏向は大和盆地の神奈備、三輪山北西麓の小さな扇状地の末端。国の曙の地とは草花が咲き乱れる穏やかな里であった。
 このところ、メディアなどで纏向遺跡にスポットが当てられている。ここで出土した3世紀の大型建物跡は、卑弥呼の居館ともされ、大型水路や祭祀に関する遺物なども検出され、纏向は邪馬台国の有力候補地とされた。
 初期大和王権の発祥であろう纏向遺跡を、ぜひ、拝んでおかねばならぬという強い思いがあった。もとより、纏向は王権の墓制、前方後円墳の発祥の地であった。以前より箸墓をはじめとする出現期の前方後円墳群の存在に強く惹かれていた。

 纏向遺跡の南に箸墓が在る。全長278m、最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型前方後円墳であるという。日本最初の巨大墳墓ということ。宮内庁は箸墓を倭迹迹日百襲媛命の墳墓として管理している。が、この古墳を魏志倭人伝が伝える卑弥呼の墓とする説は根強い。
 日本書紀の三輪山説話によると、倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神の妻となるが、大物主神の本体が蛇であることを知り、驚いて倒れこみ、箸で陰(ほと)撞いて死ぬ。箸墓は彼女の墓とされ、昼は人が造り、夜は神が造ったという。この伝承はなんらかの史実を比喩したものであろうか。

 そして、箸墓以前のものとされる纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳、ホケノ山古墳など纒向遺跡内に点在する古墳は出現期古墳とされ、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。墳丘規模90~100mで、後円部に比べ前方部が著しく小さく低平で撥(ばち)形に開いている。
 纒向型前方後円墳おいて、後円部が埋葬のための墳丘で、小さな前方部は出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓など、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、祭壇や墓道であったと考えられている。
 また、埴輪の原型とされる特殊器台、特殊壺の存在や弧帯文様(纒向石塚古墳出土の弧文円板)など、吉備との祭祀儀礼の共通がみられ、前方後円墳の成立過程での吉備との繋がりを示すという。
 故に、初期王権の権力母体は、弥生期の大和、畿内の勢力を基盤にしたものではなく、吉備など西日本域の国家連合によるものであるともされる。(wikipedia)

 前方後円墳の起源について壺形説の存在がある。確かに、纒向型前方後円墳は円丘が高く、前方部が小さく低平なため「壺」の形に似ている。また、「壺」の形は子宮や母胎の観念をもつとされる。そして、古代中国の神仙思想においては、仙境、蓬莱山のイメージが壺形であった。

 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は弥生前期に派生、中期には奴国の中枢とされる須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、福岡平野から吉野ヶ里などの佐賀平野に分布する。甕棺墓とは甕や壺を棺として埋葬するもの。蓋や2個の甕を開口部で合わせた合口甕棺などの接合部は粘土などで密閉される。
 そして、甕棺内部で遺体は屈葬にされる。縄文期の埋葬が屈葬であった。これは死者が蘇るのを恐れたためといわれる。また、屈葬は子宮の中の胎児の姿でもあり、子宮への回帰と生命更新を祈る意味があったとも。もとより、甕棺自体が子宮や母胎の観念であった。ホケノ山古墳の墓拡に何故か大型の壺が供献されていた。半分ほど土に埋まった大壺は、当に、「纒向型前方後円墳」の姿であった。

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纏向石塚古墳の平面図、当に、土器壺の姿。

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ホケノ山古墳の墓拡の大型壺。

 そして、九州北部域で盛行した甕棺墓は弥生末期には消滅する。それに連鎖するように弥生末期、3世紀の大和盆地に甕壺の形をした前方後円墳が出現するのである。巨大化が大和盆地の感性ともみえていた。
 銅鏡の大量副葬、そして鏡と剣、玉の三神器を副葬する習俗が、大和盆地を中心に古墳期の支配者層の習俗として一般化する。が、それらは、奴国王墓とされる須玖岡本遺跡や伊都国の三雲南小路の王墓、平原王墓など、弥生期の甕棺墓域の神祇であり、弥生期の畿内には無かった習俗。逆に畿内の神祇、銅鐸は3世紀に突然、消滅している。
 初期の王権が吉備など西日本各域の連合による政権であったとすれば、その中枢は九州北部の甕棺墓域の勢力ではなかったか。

 また、出現期古墳とされる纒向遺跡内の纒向勝山古墳、東田大塚古墳、そしてホケノ山古墳、箸墓は葺石に覆われていたことが確認されている。
 弥生前、中期の甕棺墓において、王墓など有力者の甕棺墓の地表面には標石と呼ばれる大石が設置されていた。奴国王墓とされる須玖岡本の甕棺墓も巨大な上石と枕石と呼ばれる二つの大石を組み合わせて標石としている。
 また、熊本の新南部遺跡群では、弥生中期の甕棺墓の地表面を無数の礫石で覆う標石が検出されている。甕棺墓域の為政者は自身の墳墓を石造りとした。
 前方後円墳の葺石も墳墓を石造りとしたもの。出現期古墳の葺石とは甕棺墓の標石の延長ともみえる。

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八幡、王子本宮の礫石で覆われた円形と方形の磐境。考古学的にも貴重なものとされる。

 そして、前方後円墳はそのかたちを変化させてゆく。前方部を巨大化させ、撥(ばち)形の開きを直線化させるのである。
 北九州市八幡西区、一宮神社の王子本宮には、神武天皇が東遷の折、天神、地祇を祀ったとされる磐境(いわさか)が残されている。人頭ほどの礫石を敷きつめた古代祭祀の磐座で、神域をしめす柵の中、円形の天神と方形の地祇のふたつの磐座が祀られている。
 前方後円墳の定型化に際して、古代中国の「天円地方説」の存在が指摘される。天円地方とは古代中国の宇宙観。天は円形、地は方形であるとされ、円丘で天神を祀り、方丘で地祇を祀ったとする。故に、天を祀る「天壇」などは円形の構造物とされる。王子本宮の磐境とは天円地方の神祇。

 古代、晋の武帝(265年即位)の時に、円丘と方丘を合わせた壇を造り、冬至の祭祀儀礼が行なわれたという。魏志倭人伝にいう邪馬台国の使者が派遣された年のこと。
 縄文以来の子宮や母胎の観念を具現した壺形の墳墓は、新しい思想を得て、かたちを斉えてゆく。前方後円墳において、前方部が巨大化する由縁であろうか。(了)


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