鹿児島、指宿の開聞岳北麓に鎮座する「枚聞神社(ひらきき)」は薩摩国一宮。朱垣に囲まれた神域に島津義弘が慶長15年(1610年)に再興した朱塗りの社殿群が佇みます。神代の創祀とされ、大日霊貴命(天照大御神)を主祭神として、天之忍穂耳命など五男三女神を配祀します。が、古史では祭神を枚聞(ひらきき)神、開聞神などと称し、南薩の総氏神、開拓祖神ともされます。
枚聞神社は開聞岳を神体として、山頂に奥宮と思われる末社、御嶽神社を鎮座させます。参道から正面を望むと社殿群の先に開聞岳が聳えて、山体を遥拝する配置になっています。
開聞岳は薩摩半島南端、鹿児島(錦江)湾の湾口に聳える標高924mの火山。美しい円錐形の山容から薩摩富士とも呼ばれます。東シナ海に突出して、古く、航路の目印とされています。枚聞(ひらきき)とは「開聞」の読み。「かいもん」とは、即ち、鹿児島湾の「海門」の意とされます。
また、枚聞神社は古伝では「和多都美神社」とも称されます。和多都美(わたつみ、綿津見)神とは海神、豊玉彦命。伝承ではこの宮は海幸山幸の神話において、山幸彦が訪れた海神の宮、龍宮とされ、傍の「玉の井」には海神の女(むすめ)、豊玉姫命と彦火々出見尊(山幸彦)の婚姻伝承が遺(のこ)されます。枚聞(ひらきき)神祭祀とは古く、開聞岳を神体とする航海神として、和多都美(綿津見)神を祭祀していたものを、明治の神社整備の際に皇祖神を祭神としたようです。
東シナ海に突出する開聞岳。
海神、綿津見神を祀る宮の総本社は、博多湾口に浮かぶ志賀島(しかのしま)の「志賀海神社」とされます。志賀海神社は古代海人族「阿曇氏(あづみ)」の祭祀で、阿曇氏の氏神として綿津見神を祀ります。
阿曇氏は鹿トーテムの氏族とされ、志賀海神社には「鹿角堂」があり、鹿の角が奉納されます。阿曇氏族は永遠の地へ鹿に導かれた台湾のサオ族や、美しい娘となった鹿と結ばれて繁栄した海南島のリー族などの説話に代表される南方の鹿トーテムの民の流れ。日本海沿岸に「越(えつ)」の故名を残し、航海に優れたとされる大陸南岸の越人に由来するともいわれます。(古代妄想「鹿の話。」参照)
そして、枚聞神社にも鹿の伝承が遺されます。孝徳天皇の代、開聞岳の麓で懐妊した鹿が美しい姫を産みます。その姫は入京し、十三歳で召されて天智天皇の妃となります。そして、姫には鹿のひずめがあったとされます(大宮姫伝承)。鹿児島とは鹿の児の島。鹿屋に鹿ノ子、当に鹿だらけ。鹿トーテムの民の存在とは、カゴシマに鹿の児の字を宛てた理由(わけ)。
枚聞神社で和多都美神(綿津見神)を氏神として祭祀する民とは、阿曇氏と同じ流れの越人由来ともみえます。BC数百年頃の「百越の倭人」の列島への渡来や、BC300年頃、楚に滅ぼされた春秋期の「越」の遺民の渡来があったとされます。この地は東シナ海を北上する黒潮が洗う浜。大陸南岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの地に辿り着きます。
また、この地は神話において日向に降臨した邇邇藝命(ににぎ)が阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜毘売)に出会ったとされる笠沙の岬に連なる浜。天孫降臨において、邇邇藝命は日向の高千穂の久士布流多気に天降ります。そして、邇邇藝命は「此の地は韓(から)国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、この地に宮居を営みます(古事記)。
笠沙の岬とは旧笠沙町の野間半島の旧名。そして、薩摩半島西岸には天孫降臨に纏わる伝承が色濃く遺されます。野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原には「笠沙の宮旧跡」があり、対岸は阿多都比売(木花之佐久夜毘売)の本地、旧阿多郷。
神話では邇邇藝命は高千穂峰に降臨したとされます。が、あまりにも非現実的。東アジアの建国神話は、王権の神聖さを示すため、天上からの降臨を類型とします。降臨神話が何らかの史実を投影するのであれば、このあたりの海岸への上陸が最も整合性が高いとされます。日向とは古く、南九州の総称。日向より薩摩と大隅が分割されたのは8世紀のこと。記紀神話において、天孫が降臨した日向とは南薩のこと。
そして、神話において、邇邇藝命と木花之佐久夜毘売は火照命、火須勢理命、火遠理命の三柱の子神ををもうけます(古事記)。三人の兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が、海幸山幸の説話における山幸彦、彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が海幸彦でした。
野間半島の北東の海岸に「仁王(二王)崎」が在ります。ここは山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、釣りに出かけた山幸彦が釣針を失い、塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮に赴いた浜とされます。また、枕崎は山幸彦が無間勝間の小舟に乗って最初に着いたところ。枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はそれに由来するといわれます。
山幸彦は潮路にのって開聞岳の麓、枚聞の綿津見の宮(龍宮)に着き、海神、豊玉彦命のもてなしを受けます。そして、綿津見の宮で3年ほど過ごし、豊玉彦命の女(むすめ)、豊玉姫命に失くした釣針と潮盈珠、潮乾珠を貰って戻り、ふたつの珠の霊力を使って海幸彦をこらしめます。海幸彦は山幸彦(火遠理命)に服従して忠誠を誓い、のちに隼人の阿多君の祖となります。
そして、火遠理命(彦火々出見尊)は豊玉姫命と結ばれて「高千穂宮」を営み、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず、神武天皇の父)をもうけます。
枚聞(ひらきき、開聞)は彦火々出見尊に従った海人の里。彦火々出見尊は枚聞の海人を率いて鹿児島湾を北上、高千穂宮を営んだとされる国分平野を目指したのでしょうか。神日本磐余彦尊に繋がる日向三代のストーリー。のちの時代の隼人の影はまだ見えません。
鹿トーテムの話。
「越」の中枢、能登を中心に、博多湾岸の海人、阿曇(あづみ)がその氏族名や鹿(しか)由来の地名、そして、綿津見神祭祀を遺しています。能登の羽咋郡志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏や、越より内陸に遡ったとみられる信濃の安曇野や麻績。
薩摩の西に浮かぶ甑島に遺る鹿ノ子百合は、越の海人が愛した鹿ノ子の模様をもつ百合。九州西岸から日本海を北上して、「越」の村邑に広がります。博多湾岸の海人、阿曇とは南薩、枚聞の海人を原初とするのかも知れません。
常陸の「鹿島神宮」も鹿を神使とします。鹿島神宮は天孫降臨に先立って使わされた神、武甕槌命(たけみかづち)を祭神とし、八幡宮御縁起に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名。」と記され、鹿島の武甕槌命は阿曇氏祖神、阿曇磯良と同神ともされます。潮流にのって移動する鹿トーテムの海人は、遠く、常陸まで到ったのでしょうか。黒潮の道がつきる常陸の「鹿島」も鹿ノ子の島由来。(古代妄想「越の海人」参照)
薩摩半島南端の立石土坑墓。
開聞岳の西麓、山川町の成川遺跡は弥生期から古墳期の埋葬遺跡、100を越える土坑墓(どこうぼ)が発見されています。ここでは長い自然石を立てた特徴的な墓制、「立石土坑墓」がみられます。また、開聞岳に連なる枕崎、花渡川河口には松ノ尾遺跡が在り、24基の土坑墓が発見されています。南薩のこの域の生活文化には強い地域性が指摘され、この特異な墓には鉄剣、鉄刀、鉄鏃などが副葬され、枚聞で綿津見神を祭祀する海人集団の墓制ともいわれます。そして、鹿児島湾の最奥、国分平野の中央、亀ノ甲遺跡からもおなじ土坑墓が検出されています。
また、松ノ尾遺跡からは南海産の大型貝のゴホウラ、イモガイ、オオツタノハの貝輪が発見されます。この時代、奄美、沖縄に産するこれらの貝は貝輪などの装飾品として交易に使われ、北部九州や山陰、瀬戸内にまで広がっています。種子島の広田遺跡からは、弥生期から古墳期にかけての150体の人骨に伴い、4万点の貝輪などが出土しています。貝輪交易は薩摩半島南端に在って、潮流にのって移動する海人の存在がみえます。
枚聞神とは渡海明神。
神社名鑑では枚聞神社は「渡海明神」と記され、猿田彦命を祀るとされます。猿田彦命は天孫降臨の際に、天の八衢(分かれ道)に立って道を照らした道案内の国津神(古事記)。殊に、航海の目印とされた開聞岳に祀るに相応しい神。
そして、枚聞神社は渡海神として琉球人の崇敬が篤く、琉球王の名による7点の扁額が遺されています。開聞岳が東シナ海航路の目印とされたことを再確認します。それとも、琉球人の崇敬が篤いのは、南薩に上陸したともみえる天孫に由来する話でしょうか。前述の松ノ尾遺跡には琉球人墓が在ったと旧誌に記されます。
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枚聞神社は開聞岳を神体として、山頂に奥宮と思われる末社、御嶽神社を鎮座させます。参道から正面を望むと社殿群の先に開聞岳が聳えて、山体を遥拝する配置になっています。
開聞岳は薩摩半島南端、鹿児島(錦江)湾の湾口に聳える標高924mの火山。美しい円錐形の山容から薩摩富士とも呼ばれます。東シナ海に突出して、古く、航路の目印とされています。枚聞(ひらきき)とは「開聞」の読み。「かいもん」とは、即ち、鹿児島湾の「海門」の意とされます。
また、枚聞神社は古伝では「和多都美神社」とも称されます。和多都美(わたつみ、綿津見)神とは海神、豊玉彦命。伝承ではこの宮は海幸山幸の神話において、山幸彦が訪れた海神の宮、龍宮とされ、傍の「玉の井」には海神の女(むすめ)、豊玉姫命と彦火々出見尊(山幸彦)の婚姻伝承が遺(のこ)されます。枚聞(ひらきき)神祭祀とは古く、開聞岳を神体とする航海神として、和多都美(綿津見)神を祭祀していたものを、明治の神社整備の際に皇祖神を祭神としたようです。
東シナ海に突出する開聞岳。
海神、綿津見神を祀る宮の総本社は、博多湾口に浮かぶ志賀島(しかのしま)の「志賀海神社」とされます。志賀海神社は古代海人族「阿曇氏(あづみ)」の祭祀で、阿曇氏の氏神として綿津見神を祀ります。
阿曇氏は鹿トーテムの氏族とされ、志賀海神社には「鹿角堂」があり、鹿の角が奉納されます。阿曇氏族は永遠の地へ鹿に導かれた台湾のサオ族や、美しい娘となった鹿と結ばれて繁栄した海南島のリー族などの説話に代表される南方の鹿トーテムの民の流れ。日本海沿岸に「越(えつ)」の故名を残し、航海に優れたとされる大陸南岸の越人に由来するともいわれます。(古代妄想「鹿の話。」参照)
そして、枚聞神社にも鹿の伝承が遺されます。孝徳天皇の代、開聞岳の麓で懐妊した鹿が美しい姫を産みます。その姫は入京し、十三歳で召されて天智天皇の妃となります。そして、姫には鹿のひずめがあったとされます(大宮姫伝承)。鹿児島とは鹿の児の島。鹿屋に鹿ノ子、当に鹿だらけ。鹿トーテムの民の存在とは、カゴシマに鹿の児の字を宛てた理由(わけ)。
枚聞神社で和多都美神(綿津見神)を氏神として祭祀する民とは、阿曇氏と同じ流れの越人由来ともみえます。BC数百年頃の「百越の倭人」の列島への渡来や、BC300年頃、楚に滅ぼされた春秋期の「越」の遺民の渡来があったとされます。この地は東シナ海を北上する黒潮が洗う浜。大陸南岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの地に辿り着きます。
また、この地は神話において日向に降臨した邇邇藝命(ににぎ)が阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜毘売)に出会ったとされる笠沙の岬に連なる浜。天孫降臨において、邇邇藝命は日向の高千穂の久士布流多気に天降ります。そして、邇邇藝命は「此の地は韓(から)国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、この地に宮居を営みます(古事記)。
笠沙の岬とは旧笠沙町の野間半島の旧名。そして、薩摩半島西岸には天孫降臨に纏わる伝承が色濃く遺されます。野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原には「笠沙の宮旧跡」があり、対岸は阿多都比売(木花之佐久夜毘売)の本地、旧阿多郷。
神話では邇邇藝命は高千穂峰に降臨したとされます。が、あまりにも非現実的。東アジアの建国神話は、王権の神聖さを示すため、天上からの降臨を類型とします。降臨神話が何らかの史実を投影するのであれば、このあたりの海岸への上陸が最も整合性が高いとされます。日向とは古く、南九州の総称。日向より薩摩と大隅が分割されたのは8世紀のこと。記紀神話において、天孫が降臨した日向とは南薩のこと。
そして、神話において、邇邇藝命と木花之佐久夜毘売は火照命、火須勢理命、火遠理命の三柱の子神ををもうけます(古事記)。三人の兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が、海幸山幸の説話における山幸彦、彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が海幸彦でした。
野間半島の北東の海岸に「仁王(二王)崎」が在ります。ここは山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、釣りに出かけた山幸彦が釣針を失い、塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮に赴いた浜とされます。また、枕崎は山幸彦が無間勝間の小舟に乗って最初に着いたところ。枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はそれに由来するといわれます。
山幸彦は潮路にのって開聞岳の麓、枚聞の綿津見の宮(龍宮)に着き、海神、豊玉彦命のもてなしを受けます。そして、綿津見の宮で3年ほど過ごし、豊玉彦命の女(むすめ)、豊玉姫命に失くした釣針と潮盈珠、潮乾珠を貰って戻り、ふたつの珠の霊力を使って海幸彦をこらしめます。海幸彦は山幸彦(火遠理命)に服従して忠誠を誓い、のちに隼人の阿多君の祖となります。
そして、火遠理命(彦火々出見尊)は豊玉姫命と結ばれて「高千穂宮」を営み、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず、神武天皇の父)をもうけます。
枚聞(ひらきき、開聞)は彦火々出見尊に従った海人の里。彦火々出見尊は枚聞の海人を率いて鹿児島湾を北上、高千穂宮を営んだとされる国分平野を目指したのでしょうか。神日本磐余彦尊に繋がる日向三代のストーリー。のちの時代の隼人の影はまだ見えません。
鹿トーテムの話。
「越」の中枢、能登を中心に、博多湾岸の海人、阿曇(あづみ)がその氏族名や鹿(しか)由来の地名、そして、綿津見神祭祀を遺しています。能登の羽咋郡志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏や、越より内陸に遡ったとみられる信濃の安曇野や麻績。
薩摩の西に浮かぶ甑島に遺る鹿ノ子百合は、越の海人が愛した鹿ノ子の模様をもつ百合。九州西岸から日本海を北上して、「越」の村邑に広がります。博多湾岸の海人、阿曇とは南薩、枚聞の海人を原初とするのかも知れません。
常陸の「鹿島神宮」も鹿を神使とします。鹿島神宮は天孫降臨に先立って使わされた神、武甕槌命(たけみかづち)を祭神とし、八幡宮御縁起に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名。」と記され、鹿島の武甕槌命は阿曇氏祖神、阿曇磯良と同神ともされます。潮流にのって移動する鹿トーテムの海人は、遠く、常陸まで到ったのでしょうか。黒潮の道がつきる常陸の「鹿島」も鹿ノ子の島由来。(古代妄想「越の海人」参照)
薩摩半島南端の立石土坑墓。
開聞岳の西麓、山川町の成川遺跡は弥生期から古墳期の埋葬遺跡、100を越える土坑墓(どこうぼ)が発見されています。ここでは長い自然石を立てた特徴的な墓制、「立石土坑墓」がみられます。また、開聞岳に連なる枕崎、花渡川河口には松ノ尾遺跡が在り、24基の土坑墓が発見されています。南薩のこの域の生活文化には強い地域性が指摘され、この特異な墓には鉄剣、鉄刀、鉄鏃などが副葬され、枚聞で綿津見神を祭祀する海人集団の墓制ともいわれます。そして、鹿児島湾の最奥、国分平野の中央、亀ノ甲遺跡からもおなじ土坑墓が検出されています。
また、松ノ尾遺跡からは南海産の大型貝のゴホウラ、イモガイ、オオツタノハの貝輪が発見されます。この時代、奄美、沖縄に産するこれらの貝は貝輪などの装飾品として交易に使われ、北部九州や山陰、瀬戸内にまで広がっています。種子島の広田遺跡からは、弥生期から古墳期にかけての150体の人骨に伴い、4万点の貝輪などが出土しています。貝輪交易は薩摩半島南端に在って、潮流にのって移動する海人の存在がみえます。
枚聞神とは渡海明神。
神社名鑑では枚聞神社は「渡海明神」と記され、猿田彦命を祀るとされます。猿田彦命は天孫降臨の際に、天の八衢(分かれ道)に立って道を照らした道案内の国津神(古事記)。殊に、航海の目印とされた開聞岳に祀るに相応しい神。
そして、枚聞神社は渡海神として琉球人の崇敬が篤く、琉球王の名による7点の扁額が遺されています。開聞岳が東シナ海航路の目印とされたことを再確認します。それとも、琉球人の崇敬が篤いのは、南薩に上陸したともみえる天孫に由来する話でしょうか。前述の松ノ尾遺跡には琉球人墓が在ったと旧誌に記されます。
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