橿原神宮は畝傍山の麓に広大な神域を広げていた。早朝の参拝であったため朝日が畝傍山の上方を茜色に染めて神々しい。
 辛酉の歳、神武天皇元年の正月、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮にて践祚し、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」を称したという。明治に入り、国は橿原宮があったとされる畝傍山の南麓に橿原神宮を興し、それまで桜井の多武峰にて奉斎してきた神武天皇の神霊を移したとされる。天皇の陵墓は北麓の畝傍山東北陵、畝傍山の向こう側に在る。

橿原6089

 畝傍山の麓に鎮座する橿原神宮。社地は神武天皇の畝傍橿原宮の地とされる。


 参拝を終えて近鉄橿原神宮前駅へと歩く。駅へ向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑とされる。神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる「畝傍山以西の川辺の地」である。

 町の中央に久米御県神社が鎮座する。延喜式神名帳に大和国高市郡久米御県神社三座とある式内社。久米氏がその祖神を祀ったとする。北に隣接して久米仙人の説話が残る古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が町中に並んでいる。

 神武東征において、神日本磐余彦尊の側に在って能く藩屏となりし大久米命を想起する。


 久米氏は古代日本における軍事氏族。祖神の天津久米命は大伴氏祖神の天忍日命とともに瓊瓊杵尊の降臨を先導したとされる。古事記には天津久米命は靫を負ひ、頭椎の太刀を腰に着けて櫨弓(はじゆみ)を手に取り、真鹿児矢(まかこや)を手鋏みに持って天孫の先に立ったと記される。

 神武東征においては大久米命が大伴氏の祖、道臣命とともに活躍、大久米命配下は神武王朝の藩屏として皇軍の主力であったともされる。そして「撃ちてし止まむ」の久米歌は戦闘歌の代表とされ、当に、久米氏はこの国の曙における干城ともいうべき存在であった。


 現在、多くの歴史学者が神武天皇の実在を認めてはいない。記紀の東征説話も神話的であるとして史実ではないとする。が、大和王権の創成期において、久米氏が王権の軍事力として貢献したことは間違いのないこと。久米町における久米氏族の痕跡がそれを示している。


 久米氏は隼人系の海人ともいわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団であった。大久米命は黥利目(入墨目)であり、魏志倭人伝に倭人は水人で黥面文身すると記され、入墨は海人の習俗であった。

 そして、「久米(くめ)」の発祥のひとつとして、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在がある。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地。古代においてメとマは同じ音とされ、久米はクマとも発音されるという。戦前の歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん。」と述べ、久米はのちの熊襲、九州中南の狗人に纏わるとする。



 前項「狗奴国の謎。」において、弥生後期の人吉盆地で熊襲の土器とも呼ばれる免田式土器(重孤文土器)を奉じた特異な集団が呉の太伯の後を称する江南の民に拘わるともみえていた。古く、彼らは列島本来の縄文由来の民と融合、狗(く)人として九州中南に拡散している。九州中南は縄文と弥生文化の共存が極めて長いとされる。


 また、彼らが八代海沿岸から白川、緑川流域を北上した痕跡が免田式土器の拡散に投影されている。そして、阿蘇を国邑として大量の鉄器を保有し、かつてない軍事力を有して、その領域を菊池川流域にまでに広げ、狗奴国を建国させるというストーリーが浮かび上がっていた(*1)。軍事の族、久米(狗人)の存在とこの集団が重なる。


 阿蘇に山部氏族の存在がある。阿蘇の山部氏族は阿蘇神社を中枢とする阿蘇山の祭祀を司る氏族であった。「山部」は部民制からきた職掌名だが、それが特定の族を示すとみえる状況がある。姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。また、新撰姓氏録は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魂志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとする。


kuruma-a
九州中南の神祇の中枢、阿蘇の考古は特徴的。弥生後期後半の阿蘇は鉄器を出土する集落が最も密集する域。当時の九州北部に対抗しうる勢力は同時代の列島において阿蘇の域しかないとされる。

 阿蘇神話において、阿蘇の山部氏族は神武天皇の長子、日子八井命(草部吉見神)を祖神としている。前項「狗奴国の謎。」において、魏志倭人伝にいう狗奴国が阿蘇を国邑として、その領域を免田式土器の分布域、菊池川流域から八代海沿岸、球磨の人吉盆地、そして北薩摩域、日向南半として、筑後川流域をも蹂躙していたという事象がみえていた。また、草部吉見神社縁起は阿蘇の草部吉見神が筑紫を鎮護していたとする。(*2)

 これらの事象や伝承が神日本磐余彦尊と狗奴国の存在を重ね、阿蘇の山部氏族が神日本磐余彦尊の側(そば)に在って藩屏となりし、大久米命の流れとされることで、神武東征が九州中南の狗奴国勢力の東征、王権樹立を投影したとする説を補完するとも思わせる。「翰苑」などに倭人は呉の祖、太伯の後裔であるとされる由縁。
 旧唐書には日本は倭国の別種であると記載され、もともと小国であった日本が倭国を併合したと記される。新唐書でも日本は古くから交流のあった倭国とは別と捉えられ、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったなどの記述がある。

 弥生末期において、列島最大の鉄生産を誇る阿蘇あたりの鉄鏃は北部九州のそれに比べて大型である。天久米命が装備したとされる、強大な霊力を潜ませた櫨弓(はじゆみ)と真鹿児矢(まかこや)の鏃として、いかにも相応しい。(了)

DSC02967
鹿児島湾に浮かぶ桜島。「桜島」の名は大山祇神の女(むすめ)、木花咲耶姫命(神阿多都比売、鹿葦津姫)に由来するとも。


(追補)
 南西諸島に久米島が在る。この島は水が豊富であり、古くから稲作が行われたという。久米は黒潮にのって南西諸島を伝い、南九州に上陸した族ともみえる。そして、隼人が拘わる山幸海幸の逸話などが、インドネシアの神話をルーツとし、のちの隼人の楯などの渦巻紋や鋸歯紋の類が東南アジアにおいて悪敵を払う呪術として見られることで、隼人に纏わる久米が極南界の海人であったとも思わせる。

 神話においては隼人の祖が火闌降命であり、その母が大山祇神の女(むすめ)、そして、久米の流れとされる山部は大山祇神に纏わるという。
 また、綿津見神、豊玉彦、豊玉姫父娘の系譜に投影された海人、鹿トーテムの民、大陸南岸の越人の痕跡も南九州に濃い。鹿児島とは鹿子の島。鹿屋に鹿ノ子、彼の地は殊に鹿だらけ。(*3)

南九州に上陸した民は多岐にわたり、この地が列島本来の縄文の民が繁栄した域であったことで、その共存は複雑な様相を呈している。それらが、天孫が婚姻をもって国津の民、大山祇神や綿津見神の系譜と融合してゆく神話に投影されたものであれば、瓊瓊杵尊の南九州への降臨(上陸)も史実であったと思わせる。

 史学は日向神話の意義として、記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として山幸海幸の逸話が着想され、隼人の住地である南九州を天孫の降臨の地とする必要があったとも述べられる。が、国家生成の大叙事詩がそのような姑息な意図で構想されたとは思えない。


「古代妄想」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen参照。
(*1)「阿蘇祖神、草部吉見神の考証。」
(*2)「狗奴国の謎。」
(*3)「越の海人。」

*古代妄想。油獏の歴史異聞 Kindle版 電子書籍
https://www.amazon.co.jp/%E6%B2%B9-%E7%8D%8F/e/B08XYGK9K5?ref_


◎無断転載を禁ず
aburabaku(a)infoseek.jp