天神地祇。

神社百景|古代妄想|神社縁起や地域伝承から古代史の謎を解く。

神社百景。「開聞岳と海神の宮、枚聞神社。」

 鹿児島、指宿の開聞岳北麓に鎮座する「枚聞神社(ひらきき)」は式内社で薩摩国一宮。朱垣に囲まれた神域に、島津義弘が慶長15年(1610年)に再興した朱塗りの社殿群が佇みます。神代の創祀とされ、大日霊貴命(天照大御神)を主祭神として、天之忍穂耳命など五男三女神を配祀します。が、古史では祭神を枚聞(ひらきき)神、開聞神などと称し、南薩の総氏神、開拓祖神ともされます。

 枚聞神社は開聞岳を神体として、山頂に奥宮と思われる末社、御嶽神社を鎮座させます。参道から正面を望むと社殿群の先に開聞岳が聳えて、山体を遥拝する配置になっています。
 開聞岳は薩摩半島南端、鹿児島(錦江)湾の湾口に聳える標高924mの火山。美しい円錐形の山容から薩摩富士とも呼ばれます。東シナ海に突出して、古く、航路の目印とされています。枚聞(ひらきき)とは「開聞」の読み。「かいもん」とは、即ち、鹿児島湾の「海門」の意とされます。

 また、枚聞神社は古伝では「和多都美神社」とも称されます。和多都美(わたつみ、綿津見)神とは海神、豊玉彦命。伝承ではこの宮は海幸山幸の神話において、山幸彦が訪れた海神の宮、龍宮とされ、傍の「玉の井」には海神の女(むすめ)、豊玉姫命と彦火々出見尊(山幸彦)の婚姻伝承が遺(のこ)されます。
 枚聞(ひらきき)神祭祀とは古く、開聞岳を神体とする航海神として、和多都美(綿津見)神や猿田彦命を祭祀していたものを、明治の神社整備の際に、皇祖神を祭神としたといわれます。

06013
東シナ海に突出する開聞岳。

 海神、綿津見神を祀る宮の総本社は、博多湾口に浮かぶ志賀島(しかのしま)の「志賀海神社」とされます。志賀海神社は古代海人族「阿曇氏(あづみ)」の祭祀で、阿曇氏の氏神として綿津見神を祀ります。
 阿曇氏は鹿トーテムの氏族とされ、志賀海神社には「鹿角堂」があり、鹿の角が奉納されます。阿曇氏とは、湖畔の永遠の地へ鹿に導かれた台湾のサオ族や、美しい娘となった鹿と結ばれて繁栄した海南島のリー族などの説話に代表される、南方の鹿トーテムの民の流れで、日本海沿岸に「越(えつ)」の故名を残し、航海に優れたとされる大陸南岸の越人に由来するといわれます。(古代妄想「鹿の話。」参照)

 そして、枚聞神社にも鹿の伝承が遺されます。孝徳天皇の頃、開聞岳の麓で懐妊した鹿が美しい姫を産みます。その姫は入京し、十三歳で召されて天智天皇の妃となります。姫には鹿のひずめがあったとされます(大宮姫伝承)。鹿児島とは鹿ノ児の島。鹿屋に鹿の子、殊に鹿だらけ。カゴシマに鹿ノ子の字を宛てた理由(わけ)。

 どうも、枚聞神社で和多都美神(綿津見神)を氏神として祭祀する民とは、阿曇氏と同じ流れの越人由来ともみえます。BC数百年頃の「百越の倭人」の列島への渡来や、BC300年頃、楚に滅ぼされた春秋期の「越」の民の渡来があったとされます。この地は東シナ海を北上する黒潮が洗う浜。東南アジアや大陸沿岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの地に辿り着きます。

04715

 また、この地は神話において日向に降臨した邇邇藝命(ににぎ)が阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜毘売)に出会った笠沙の岬に連なる浜でした。
 天孫降臨において、邇邇藝命は日向の高千穂の久士布流多気に天降ります。そして、邇邇藝命は「此の地は韓(から)国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、この地に宮居を営みます(古事記)。
 笠沙の岬とは旧笠沙町の野間半島の旧名。そして、薩摩半島西岸には天孫降臨に纏わる伝承が色濃く遺されています。野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原には「笠沙の宮旧跡」があり、対岸は阿多都比売(木花之佐久夜毘売)の本地、旧阿多郷。

 神話では邇邇藝命は高千穂峰に降臨したとされます。が、あまりにも非現実的。東アジアの建国神話は、王権の神聖さを示すため、天上からの降臨が類型とされます。降臨神話が何らかの史実を投影するのであれば、このあたりの海岸への上陸が最も整合性が高いとされます。

 神話において、邇邇藝命と木花之佐久夜毘売は火照命、火須勢理命、火遠理命の三柱の子神ををもうけます(古事記)。三人の兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が、海幸山幸の説話における山幸彦の彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が海幸彦です。
 野間半島の北東の海岸に「仁王(二王)崎」が在ります。ここは山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、釣りに出かけた山幸彦が釣針を失い、塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮に赴いた浜とされます。また、枕崎は山幸彦が無間勝間の小舟に乗って最初に着いたところ。枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はそれに由来するといわれます。

 山幸彦は潮路にのって開聞岳の麓、枚聞の綿津見の宮(龍宮)に着き、海神、豊玉彦命のもてなしを受けます。そして、綿津見の宮で3年ほど過ごし、豊玉彦命の女(むすめ)、豊玉姫命に失くした釣針と潮盈珠、潮乾珠を貰って戻り、ふたつの珠の霊力を使って海幸彦をこらしめます。海幸彦は山幸彦(火遠理命)に服従して忠誠を誓い、のちに隼人の阿多君の祖となります。
 そして、火遠理命(彦火々出見尊)は豊玉姫命と結ばれて「高千穂宮」を営み、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず、神武天皇の父)をもうけます。

 枚聞(ひらきき、開聞)は、天孫に従った海人の里。彦火々出見尊は枚聞の海人を率いて鹿児島湾を北上、高千穂宮を営んだとされる国分平野を目指したのでしょうか。神日本磐余彦尊に繋がる日向三代のストーリー。のちの時代の隼人の影はまだ見えません。



(追補)鹿トーテムの話。

 「越」の中枢、能登を中心に、博多湾岸の海人、阿曇(あづみ)がその氏族名や鹿(しか)由来の地名、そして、綿津見神祭祀を遺しています。能登の羽咋郡志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏や、越より内陸に遡ったとみられる信濃の安曇野や麻績。

 薩摩の西に浮かぶ甑島に遺る鹿ノ子百合は、越の海人が愛した鹿ノ子の模様をもつ百合。九州西岸から日本海を北上して、「越」の村邑に広がります。博多湾岸の海人、阿曇とは南薩、枚聞の海人を原初とするのかも知れません。

 常陸の「鹿島神宮」も鹿を神使とします。鹿島神宮は天孫降臨に先立って使わされた神、武甕槌命(たけみかづち)を祭神とし、八幡宮御縁起に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名。」と記され、鹿島の武甕槌命は阿曇氏祖神、阿曇磯良と同神とされます。潮流にのって移動する鹿トーテムの海人は、遠く、常陸まで到ったようです。黒潮の道がつきる常陸の「鹿島」も鹿ノ子の島由来。(古代妄想「越の海人」参照)

(追補)薩摩半島南端の立石土坑墓。

 開聞岳の西麓、山川町の成川遺跡は弥生期から古墳期の埋葬遺跡。100を越える土坑墓(どこうぼ)から348体の人骨が発見されています。ここで長い自然石を立てた特徴的な墓制、「立石土坑墓」が10数基発見されています。また、開聞岳に連なる枕崎、花渡川河口に松ノ尾遺跡が在り、24基の土坑墓が発見されています。南薩のこの域の生活文化には強い地域性が指摘され、この独特の墓には鉄剣、鉄刀、鉄鏃などが副葬され、枚聞で綿津見神を祭祀する海人集団の墓制ともみえます。そして、鹿児島湾の最奥、国分平野の中央、亀ノ甲遺跡からもその土坑墓が検出されています。

 また、松ノ尾遺跡からは南海産の大型貝のゴホウラ、イモガイ、オオツタノハの貝輪が発見されます。この時代、奄美、沖縄に産するこれらの貝は貝輪などの装飾品として交易に使われ、北部九州や山陰、瀬戸内にまで広がっています。種子島の広田遺跡からは、弥生期から古墳期にかけての150体の人骨に伴い、4万点の貝輪などが出土しています。貝輪交易は薩摩半島南端に在って、潮流にのって移動する海人の仕業ともみえます。

(追補)枚聞神は渡海明神。

 神社名鑑では枚聞神社は「渡海明神」と記され、猿田彦命を祀るとされます。猿田彦命は天孫降臨の際に、天の八衢(分かれ道)に立って道を照らした道案内の国津神(古事記)。殊に、航海の目印とされた開聞岳に祀るに相応しい神。
 そして、枚聞神社は渡海神として琉球人の崇敬が篤く、琉球王の名による7点の扁額が遺されています。開聞岳が東シナ海航路の目印とされたことを再確認します。それとも、琉球人の崇敬が篤いのは、南薩に上陸したともみえる天孫に由来する話でしょうか。前述の松ノ尾遺跡には琉球人墓が在ったと旧誌に記されます。

古代妄想。「王権成立ストーリーが秘められた住吉神祭祀。」

大阪の住吉区に鎮座する摂津国一宮、住吉大社は全国に2千社あるとされる住吉神社の総本社。航海神、住吉大神を祭祀します。住吉大神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の神で、神話では伊弉諾(いざなぎ)尊が禊(みそぎ)をしたときに生まれた神とされます。また、「筒」とは星のこと。底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の神とは三つ星の神格化ともされます。

大陸の上海の南、浙江省に天台山があります。古く、後漢の頃から霊地とされ、神仙の道士が多く住んで神仙思想の大元ともされます。三つの峰をもつ天台山は天帝の星、紫微星(北極星)を支える三つの星、三台星の真下に在るとされ、三つ星を宗紋とするのちの天台宗もこの山で生まれています。紫微星(北極星)に寄添って並ぶ三台星は、古代中国では紫微星を支えるとされる上台、中台、下台の三つ星で「三筒」とも呼ばれます。

三台星は江南の海人にとって大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを指し示します。そして、北を導く三台星は航海神ともなります。三台星(三筒)を神とする江南の海民は、蛮とされて北方の漢人に追われ、東シナ海で黒潮に乗って北上、列島へと渡ったのでしょうか。

住吉神社1
福岡市博多区住吉に鎮座する筑前国一宮、住吉神社。古記に「住吉本社」とされ、住吉大社の元宮とも伝わります。かつての那ノ津(冷泉津)の海辺に鎮座して、社地は弥生中後期の遺跡ともされます。遺跡からは銅矛、銅戈が出土して、墳墓以外に埋納された最古の例とされ、この社の祭祀は弥生期にまで遡るといわれます。

住吉神社2
博多の住吉神社の絵馬に描かれた鎌倉期のものとされる博多古図。中央の入り江が那の津(冷泉津)、湾奥の那珂川の河口付近、木立ちが描かれた岬が社地。縁起では黄泉から戻った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの社地であり、住吉大神が生まれた地とされます。太古、神殿は那の津の海辺に鎮座して、社頭の潮入りの池をその痕跡とします。


古く、博多の住吉神社の社家、佐伯(さえき)氏は大伴氏族とされ、隼人を率いて宮門守護を務めます。その名は外敵を遮(さへ)ぎるの意。天帝の星、紫微星(北極星)を守護する三台星とは海人氏族の武威の象徴ともされます。大伴氏族は邇邇藝(ににぎ)命の降臨を先導したとされる天忍日命の後裔。神武東征神話では大伴祖人、道臣命が、隼人に纏わる久米を率いて皇軍の主力となり、日向を発しています。(*1)

のちの時代、大伴氏族は摂津や河内あたりを本拠として、大伴金村の「住吉の宅」の存在があり、住吉には大和王権の港、住吉津が所在。住吉大社の社家、津守氏が住吉津の「津守」であったとされます。大阪、住吉大社の住吉神祭祀には、隼人に纏わる海人氏族が中央に進出した痕跡や神武東征神話との繋がりがみえ、そこには大和王権成立のストーリーさえ秘められているようです。


(*1)古代妄想。「久米の鯰。鯰トーテムの氏族と神武東征。」参照


住吉大社
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
公式サイトhttp://www.sumiyoshitaisha.net/

住吉神社(住吉本社)
福岡県福岡市博多区住吉3-1-51
公式サイトhttp://chikuzen-sumiyoshi.or.jp/

古代妄想。「古代史最後の謎。稲荷神の生成ストーリー。」

 京都の伏見稲荷大社は全国に約3万といわれる稲荷神社の総本社。稲荷山全体を神域として、麓に本殿が鎮座します。主祭神の宇迦之御魂大神 (うかのみたま)は五穀豊穣の神。のちに商売繁昌や家内安全の守護神ともされます。また、伊勢神宮外宮の豊受大神や食物神である保食神(うけもち)、御饌津神(みけつ)と同神ともされています。

 伏見稲荷大社は奈良期初頭の和銅年間(710年頃)に、秦氏の伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が、伊奈利(稲荷)の峯に神を祀ったことに始まり、古くは秦氏の氏神であったともいわれます。秦氏は古代の渡来氏族。秦氏の祖、弓月君は秦の始皇帝の後裔とも、辰韓の系統ともされ、機織(はたおり)を齎して、秦(はた)の名を賜ったとされます。土木や養蚕、機織の技能集団であり、山背国太秦などで繁栄しています。そして、渡来の技能集団、秦氏が唐突に穀物神を氏神とする謎が指摘されます。

伏見稲荷7438
伏見稲荷大社


 稲荷神を穀物神とする意義とは、稲荷が「稲成り」と解されるためといわれます。古く、漢字は汎用となるまでは音を表わすものでした。渡来の外来語であろうイナリは、古くは「伊奈利」と書かれ、平安期に伊奈利が「稲荷」と記されます。イナリが「稲荷」と記されたため「稲成り」と解されて、のちに穀物神とされたのでしょうか。では、秦氏が祀ったイナリの本来の意義は何であったのでしょう。

 古く、旅芸人が興行で立てる細長い布旗が「イナリ」と呼ばれます。そして、秦氏の一部が猿楽を演じる集団として各地を興行し、ネットワークをつくったという説があります。7世紀前半の秦氏の長(おさ)、山城の秦河勝(はたのかわかつ)は猿楽の始祖ともされます。猿楽とは猿田彦神の神楽に始まり、猿田彦神は伏見稲荷大社において佐田彦大神として配祀されます。

 また、稲荷神が細長い布旗と化して病人の上で舞い、病人を救うといった逸話が伝承され、稲荷社には幟旗が立ち並び、初午の祭祀に五色旗が奉納されて、子供たちが初午で貰う飴が旗のついた旗飴でした。稲荷神には飽くまで「旗(はた)」が纏わるようです。これらは稲荷神の象徴が「旗」であり、その旗を「イナリ」と呼んだ痕跡でしょうか。なによりも、秦氏は九州において「旗」の祭祀を行っていました。

伏見稲荷7434
伏見稲荷大社の千本鳥居。信奉者による奉納で、鳥居を奉納する習わしは江戸期のもの。


 秦氏の渡来は5世紀に始まるとされ、はじめは九州の豊前を拠点とします。古代中国の史書、隋書には「倭国の筑紫の東に秦王国が在り、習俗は中国人と同じである」と記されます。また、大宝2年(702年)の豊前の戸籍には、秦、秦部などの秦氏族が80%を占めるとされます。

 豊前、宇佐神宮の八幡神の生成は、在地の宇佐氏の地祇に渡来系の辛嶋氏が原八幡神の信仰をもちこみ、さらに、6世紀に中央より下った大神氏が応神天皇の神霊を同化させたといわれます。辛嶋氏とは秦氏の族とされます。辛嶋氏がもちこんだ原八幡神の神祇が「旗」の祭祀でした。八幡信仰において旗とは神の依り代、旗がはためく様子は神が示現する姿。八幡とは多くの幡(旗)を立て祀る神の姿とされます。

 宇佐の託宣集に八幡神は「我は始め辛(から、唐)国に八流の旗となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する」と述べたと記され、八幡とは大陸の軍制の象徴である「八流の旗」に由来するとされます。そして、北方の「八旗」が軍事、政治、生産の制とされ、始皇帝の「秦」が北方の民でした。八旗の族は「旗人」と呼ばれ、秦(はた)氏が旗人であったといわれます。秦氏は「旗」の信仰を齎し、豊前域に幡(はた)地名と「幡」の名をもつ神社群を密集させて(*1)、宇佐の八幡神の生成へと繋がっています。

 秦氏が元来「旗」の神祇をもち、その信仰をイナリと呼び、のちに「稲荷」と表記されたことで、稲荷神は穀物神ともなったのでしょうか。そして、穀物、農業の神である宇迦之御魂大神と結びつき、御饌津神などとも習合したともみえます。

伏見稲荷7428
稲荷神の神使とされる狐。中世の神仏習合において、稲荷神は密教の神「荼枳尼天(だきにてん)」と習合しています。荼枳尼天は白狐に乗る天女の姿。荼枳尼天と狐の結びつきは大陸の古い寓話にみられます。荼枳尼天が狐を眷属にすることで、狐は稲荷神の神使となったようです。そして、明治期の神仏分離において、荼枳尼天を祀る社は宇迦之御魂神を祭神とする稲荷社とされています。

(追補)金刀比羅宮も秦氏による「旗」の祭祀。

瀬戸内海の守護神、四国の「金刀比羅宮」も秦氏の祭祀とされます。縁起では大宝元年(701年)に一竿旗が飛び来てこの地に墜ち、そこに祠を立て「旗宮」としたと伝えます。そして、この宮の流樽の祭祀が樽に旗を立て、海に流す「旗」の神祇。秦氏は飽くまで「旗」に纏わるようです。

(*1)古代妄想「宇佐への道。」参照http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/16c31005950caefc341c50e868726e08

古代妄想。「久米の鯰。鯰トーテムの氏族と神武東征。」

奈良、橿原市の久米町。古代氏族、久米(くめ)氏の氏寺とされる久米寺には鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたとされます。


橿原市の畝傍山東南の麓に、神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座します。明治23年、国は神武天皇の橿原宮があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷します。

日向の高千穂宮より、この国を治めるために東行した神日本磐余彦尊は6年を費やし、熊野から吉野を経て大和に入り、畝傍山の麓に宮処を置きます。日本書紀は「辛酉の歳、神武天皇元年、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮で践祚し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を称した。」と記します。
現在の史学では神武天皇の存在を含め、東征説話は内容が神話的であり、史実とは考えられないとします。が、神武東征が何らかの史実を投影しているという説には根強いものがあります。

橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地。町の中央の久米御県神社は大久米命を祀ったとする式内社。社前には来目邑伝承地の碑が建ちます。隣接して久米仙人の説話を残す古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が町中に並びます。

神武東征において、神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏とされた大久米命の存在があります。久米氏は古代日本における軍事氏族。神話では邇邇芸命の降臨を先導した氏族とされ、神武東征において大久米命配下は皇軍の主力であったといわれれます。

久米氏は隼人系の海人といわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団。大久米命は黥利目(入墨目)で、入墨は海人の習俗とされます。そして、のちの隼人が天皇や王子の近習とされ、宮中の守護にあたります。大和王権の創成期において、久米氏族が王権の軍事力として貢献したのは間違いのないこと。橿原に残る久米氏族の痕跡は神武東征や橿原宮の史実性を感じさせます。

そして、前述の久米氏の氏寺、久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたとされます。

橿原6086
畝傍山麓の橿原神宮


海人、久米氏族の原初を東南アジアのクメールとする説があります。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナム南域にも分布、高床式の住居に住み稲作を行い、精霊信仰をもちます。
メコン川は東南アジア最大の川。中下流域に生息するメコンオオナマズは世界最大の淡水魚で全長2~3mほどにもなり、タイでは神の使いとされます。カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれて神聖視されています。

鯰をトーテムとする久米氏族をクメールに纏わる極南界の海人とする説には興味深いものがあります。のちの隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアの楯に悪敵を払う呪術として見られ、隼人が拘わる山彦海彦の逸話などが東南アジアの神話をルーツとする話も、それらを補完するともみえます。
倭人に拘るとされる百越の民とは、古く、大陸の南方、江南からベトナム(越)にいたる広大な沿岸域に在った非漢人諸族の総称。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、南域ではクメールと同化していたとされます。

大森58
今も生きつづける鯰の信仰


久米(くめ)氏族の発祥として、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在が指摘されます。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲(くまそ)の地。古代においてメとマは同音とされ、久米はクマとも発音されます。歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と述べ、久米は狗人、熊襲に拘わるとしました。

鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。阿蘇の開拓神、健磐龍命の神話では、健磐龍命は大鯰を退治して田畑を拓きます。この逸話は中央から下向した氏族に鯰トーテムの民が服属する図式を示すといわれ、阿蘇の古い民は鯰の信仰をもつとされ、阿蘇の古社には神使として鯰が祀られます。そして、新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。

南海から北上する黒潮に沿って、九州の南に弧を描く南西諸島の久米島や、散在する久間や来間(くま)地名も興味深いものがあります。古く、江南には句呉(くご)が存在し、極南界の海人は大陸沿岸や南西諸島を網羅して、九州南半に至ったともみえます。

神武東征とは神日本磐余彦尊が九州南半の狗奴国勢力を率いて東行したものでしょうか。狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。(*1)


(*1)古代妄想「狗奴国の謎。」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/fab018722aca1fa149d432a0ec552f52

(追補)
橿原の南、飛鳥に亀石の伝承が伝わります。昔、大和盆地が湖であった頃、川原の鯰と当麻の蛇が争い、川原の鯰が敗れて湖水を当麻に取られます。そのため川原は干上がり、多くの亀が死に絶えます。人々は亀の霊を慰めるために亀石を祀ります。古く、大和に在った鯰をトーテムとする民は、蛇トーテムの氏族と権力争いをしたのでしょうか。

また、宗像の伝承において建御名方神(タケミナカタ)が鯰をトーテムとすることなども興味深いものがあります。武甕槌命(タケミカヅチ)を祀る常陸一宮、鹿島神宮や下総一宮、香取神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在があります。国譲りで武甕槌命に戦いを挑んだ建御名方神の神霊をいまだに封じているということでしょうか。

地中の大鯰が地震を引き起こすといった伝承も逆説的に解釈すれば、忌避された鯰トーテムの民の存在を畏れた人たちがつくりだしたものかも知れません。初期王権の成立に拘わった鯰をトーテムとする民が忌避されるに至った痕跡。そこには国譲り神話の本質が隠されているのかもしれません。

鯰の信仰。「川上の與止日女と阿蘇の蒲池媛。」

九州には「鯰」(なまず)を崇める地域があります。佐賀平野の北部は背振山塊が大きな根張りを広げ、山内(さんない)と呼ばれる広大な山間の地をつくっています。
 山内の最奥、上無津呂の里に氏神として「淀姫神社」が鎮座します。この社の境内に鯰の石像があります。その真新しい石像は今でも鯰」の信仰が生きていることを如実に感じさせます。

 山内の中枢、古湯の淀姫神社や三瀬、杠の野波神社など、山内の多くの神社に「淀姫」(よどひめ)が氏神として祀られます。
 この淀姫神とは山内に流域を広げる嘉瀬川が、佐賀平野に流れ出す川上の地に鎮座する肥前国一ノ宮、與止日女神社(川上神社)の祭神、與止日女(よどひめ)のこと。
 與止日女は肥前風土記に登場する地神。肥前の有明海沿岸には與止日女を祀る神社は多く、中でもこの嘉瀬川流域には6社が祀られます。そして、この與止日女は鯰を眷族(神使)とします。

 與止日女の信仰は背振山塊を越え、筑前、那珂川の守り神ともなっています。與止日女は旧筑紫郡岩戸村の那珂川畔で「伏見神社」の祭神、淀姫命として祀られます。
 ここでも鯰は神使とされ、宮前の淵の鯰は、平時、姿を見せず、天下の変事に現れるとされます。神功皇后の三韓征伐や大阪夏の陣、島原の乱、日清、日露の戦争で現れたとされます。
 また、筑前、志摩の「桜井神社」には神功皇后の首に鯰がまきつく絵馬が掲げられています。この社の楼門の扁額には「與止妃大明神」とあり、古く、與止日女が祀られていました。背振山塊を越えた川上の與止日女の信仰は、玄界灘沿岸にまで達しています。

伏見神社97b
筑前、那珂川の守り神、伏見神社の鯰の絵馬。

 鯰を神使とし、崇める人々とはどういった民でしょう。鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。阿蘇の開拓神、健磐龍命の「蹴破り神話」と呼ばれる伝承。
 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったといわれます。健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため、満身の力で湖の壁を蹴り壊します。湖の水は流れ出しましたが大鯰が横たわり水をせき止めます。健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します。

 阿蘇神話では健磐龍命(たけいわたつ)が九州鎮護のため阿蘇に下向し、開拓してゆくさまが述べられます。古く、阿蘇には草部吉見命(日子八井命)が在ったとされます。紀元76年に神武天皇の孫である健磐龍命が下向し、健磐龍命は草部吉見命の女(むすめ)阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着します。
 大鯰の逸話は中央から派遣された氏族に、鯰をトーテムとする先住の民が征服されるという図式を表しているともいわれます。阿蘇の古い民は鯰をトーテムとするとされます。

 阿蘇の大鯰の霊は「国造神社」の鯰宮に祀られます。阿蘇の手野に鎮座する国造神社は、健磐龍命の子、速瓶玉命と妃の雨宮媛命を祀ります。
 が、国造神社は阿蘇神社の元宮ともされ、本来は、阿蘇の神々の母とも呼ばれる「蒲池媛」を祀るといわれます。蒲池媛(かまちひめ)は八代海、宇城の地より阿蘇に入り、阿蘇の神に嫁いだとされます。小国の出自である速瓶玉命の妃、雨宮媛とは別神。
 また、蒲池媛は神功皇后の三韓征伐に従い、満珠干珠の玉で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたといわれる八代海の海神でした。そして、満珠は蒲池媛の出自、宇土の郡浦神社に、干珠は阿蘇外輪の草部吉見神社に祀られたとされます。



 肥前、川上の與止日女も肥前国風土記に「海の神、鰐魚が流れに逆らって上りきて、この神のところに到るに海の小魚もしたがって来る。」とされる海神で、川と海の水を操作する二つの珠で、有明海の干満を操作したとされます。満珠干珠を通して川上の與止日女と阿蘇の蒲池媛が重なります。
 そして、上益城の鯰三神社、菊池の乙姫神社、健磐龍命の妃、阿蘇都比売命を祀る山鹿の二宮神社など、肥後から筑後にかけて、阿蘇神に纏わる10社以上の神社で鯰が祀られます。

伏見神社の鯰は神功皇后の三韓征伐の折、群をなして船を抱き、水先案内として戦勝に導いたとする。肥前、川上の與止日女(淀姫)は神功皇后の妹ともされ、皇后の祈祷を助けたとされる。阿蘇の蒲池媛も皇后の三韓征伐に従い、満珠干珠の玉で皇后軍を勝利に導いたといわれる。
鎌倉期の国難、元寇を契機として八幡神信仰が隆盛する。北部九州の神々は宇佐神宮などの傘下に入り、八幡神信仰を受け入れたとされる。そして、神功皇后の三韓征伐に拘わる神社縁起に関しては、多くはこの時代に創作、付加されている。
高良玉垂宮では京都の石清水八幡宮の拘わりにて、この時代に高良玉垂宮縁起が編纂され、高良玉垂命が三韓征伐に随行したという話や、高良の豊比咩命が神功皇后の妹とされることなどが付加されている。與止日女や蒲池媛のケースもその類ともみえる。



 さて、鯰を神使とする女神を祀り、潮の満ち引きを操る海人とは、何処からきたのでしょうか。
 後漢書倭伝に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とあり、注釈によると「魚是」は鯰の意。(魚是は一つの文字)そして、会稽の海外の東魚是人とは、漢の会稽郡の東、列島の二十余国であるとされます。
 民俗学の谷川健一は、この東魚是人とは鯰をトーテムとする民のことであり、大鯰の伝承をもつ阿蘇の民を指摘しています。

 古く、呉人の風俗が提冠提縫と表され、提とは鯰。呉人は鯰の冠を被るとされました。呉は長江の下流域に在って、BC473年に越に滅ぼされます。呉人は海人、東シナ海から列島へと渡ります。大陸の史書に倭人は呉(句呉)の祖、「太伯」の後裔であり、入墨などの習俗は共通すると書かれます。
 殊に、鯰をトーテムとし、潮の満ち引きを操る海民とは、長江の下流域から列島へと渡った「句呉(こうご、くご)」の民でしょうか。
 太宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書「翰苑」(かんえん)は「女王国の南の狗奴国が、自ら 太伯の後であると謂った。」と記します。この狗奴国がのちに熊襲とされる九州中南の狗人勢力であれば、その中枢は阿蘇あたりが相応しいようです。

 筑後、三瀦(みずま)に鎮座する大善寺玉垂宮は、古代氏族、水沼氏(水間、みぬま)が、始祖を玉垂神として祀ったとされます。
 また、この宮は高良玉垂宮の元宮ともされ、筑後国神名帳には玉垂媛神の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるとされます。
 筑後の名族とされる蒲池氏(かまち)において、祖蒲池と呼ばれる古族が阿蘇の蒲池媛を祖とします。そしてこの古族が水沼氏族と重なります。玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。
 日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(むさのすぐりあお)が、呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述があります。古く、有明海は三潴のあたりまで湾入し、三潴は大陸交易の拠点でした。
 そして、水沼氏族は江南への航路祭祀を行っていました。江南の句呉の系譜こそ、その出自に相応しいものでした。

 古く、肥前の與止日女神社を奉祭する高木氏族は高良あたりを本地とし、大善寺周辺に濃密に存在して玉垂神祭祀に拘わっています。
 鯰を眷族(神使)とし、潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る女神は、八代海から有明海沿岸を北上し、川上の與止日女に習合してその信仰域を広げています。

高良6162
高良玉垂宮

 肥前、嬉野。温泉街の真ん中に「豊玉姫神社」が鎮座します。豊玉姫命を祀り、やはり、鯰を神使として、なまず社には大きな白磁の鯰像が鎮座します。古来より肌の病いにご利益があるとされ、温泉と相俟って美肌の神とされています。
 豊玉姫命は潮干珠、潮満珠を操る海神の女(むすめ)。神話では海神の宮にやってきた山幸彦(火遠理命)と結ばれ、鵜葺屋葺不合命(神武天皇の父)をもうけます。
 ここでは、鯰を神使とし、潮の満ち引きを操る海人の女神は、記紀神話の姫神とも習合しています。
 蒲池媛、菊池の乙姫、與止日女、世田姫、豊姫、そして豊玉姫。鯰に纏わる女神たち。その存在は、歴史の中で複雑に絡み合って分離し、また、融合しています。為政者によってその座を下ろされた神を、民は名を変えて祀るのでしょうか。

 飛鳥に亀石の伝承が伝わります。昔、大和盆地が湖水であった頃、当麻の蛇と川原の鯰の間に争いが起こります。そして、川原の鯰が敗れ、湖の水を当麻に取られてしまいます。そのため川原が干上がり、多くの亀が死んでしまいます。人々は、亀の霊を慰めるために亀石を祀ったとされます。
 太古の大和には多くの王権が存在したという説があり、この逸話はその争いを投影したものとも。古く、鯰をトーテムとする民は大和盆地にまで達していたのでしょうか。(了)




(追補)「国譲り神話の真実。」

 筑前、宗像の南、福間に地域最大の公園、「なまずの郷」があります。なまずの郷は、福間の中枢を流れる西郷川の流域の民が、建御名方神を奉祭し、鯰を眷属として祀ることに由来するとされます。今は、4社で健御名方神の祭祀が確認できます。
 国譲り神話において、葦原中つ国の国譲りを迫る武甕槌命に戦いを挑んだ大国主の子神、健御名方命は敗れて、科野の諏訪に追いつめられます。
 福間の伝承では建御名方命が諏訪の湖まで逃れた折、大鯰が現れ、建御名方命を背に乗せて対岸まで渡したとします。故に、建御名方命は鯰を眷属とすると伝わります。

 阿蘇神話において、鯰をトーテムとする先住の民が、阿蘇の祖神、草部吉見命(日子八井命)と重なっていました。
 そして諏訪では、阿蘇の草部吉見命を建御名方命の後とします。諏訪大社上社大祝の系譜では、建御名方命の5世孫として、会知速男命(市速男命)が在り、その女(むすめ)の阿蘇比売命は、武五百建命(たけいおたつ、科野国造)の妃であり、御子の速甕玉命が阿蘇国造であるとしています。
 阿蘇神話の系譜においては、草部吉見命の女(むすめ)、阿蘇都比売命は阿蘇に下向した健磐龍命(たけいわたつ)の妃であり、御子の速甕玉命が阿蘇国造でした。
 つまり、建御名方命の後、会知速男命とは阿蘇の草部吉見命であるとします。


 肥前、杵島に「稲佐(いなさ)神社」が鎮座します。社伝によると五十猛神(いそたける)を稲佐明神として祀ったとされます。
 この地は古く、住之江と呼ばれる有明海の最奥の海辺。そして、五十猛神は稲佐の八艘帆ヶ崎(はっすぽ)に韓地より上陸したとされます。
 出雲では高天原より派遣された建御雷神が上陸した浜が「稲佐(伊那佐、いなさ)の小濱」でした。そして国譲りの舞台ともされます。

 不思議な符合があります。建御雷神は常陸国一宮、鹿島神宮に祀られますが、杵島の拠点域も鹿島とされる鹿の拘わりがあります。
 建御雷神を祀る鹿島神宮や春日大社では鹿を神使とし、鹿をトーテムとする民とは阿曇氏をはじめとする日本海沿岸に「越」の故名を残した江南の越人(干越)に由来する海人ともされます。
 八幡愚童訓は「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」として、博多湾口の志賀(鹿)島に祀られる阿曇氏の祖神、磯武良と建御雷神を同神であるとします。そして、磯武良(いそたけら)が五十猛神(いそたける)と音を同じくして同神ともいわれます。
 五十猛神は稲佐(伊那佐、いなさ)や鹿トーテムの民を通じて国譲り神話の建御雷神と重なっています。

稲佐6352
肥前、稲佐神社

 五十猛神は「筑紫の国魂」として筑紫神社に祀られます。この社の後背には基山が聳え、古く、山上に五十猛神が在ったとされます。
 そして、基山の五十猛神は、南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする礫打伝承(つぶてうち)を残し、それは戦さの記憶とされます。(*1)

 高良玉垂宮の元宮とされる筑後、三瀦の大善寺玉垂宮は古代氏族、水沼氏(水間、みぬま)が始祖を玉垂神として祀ったとされます。
 筑後の名族とされる蒲池氏(かまち)において、祖蒲池と呼ばれる古族が、阿蘇の蒲池媛を祖とし、水沼氏族と重なっていました。玉垂神の名義は蒲池媛に纏わる潮干珠、潮満珠に由来します。
 その時代、高良山に進駐し、五十猛神とせめぎあったのは、阿蘇由来の狗人の神でした。基山の礫打伝承とは、五十猛神を奉祭する韓半島に拘わる勢力と高良に在った狗人との戦さの記憶。

 阿蘇の古い民が奉祭する蒲池媛が、有明海沿岸の與止日女(よどひめ)などに習合して、これら鯰をトーテムとする女神信仰の広がりは、中南九州の狗人が有明海沿岸から九州北部域へと領域を拡げた痕跡ともされました。
 阿蘇の祖神、草部吉見神を祀る「草部吉見神社」の縁起は、草部吉見神が筑紫を鎮護していたと述べます。筑紫の古義とは九州島の総称。古代の或る時代、阿蘇の草部吉見神は九州全域をその領域としていたともみえます。

 そして、基山と高良山に挟まれた小郡のあたりは「隈」地名が集中する域。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名とみえ、それを施したのは韓半島由来の支配氏族とされます。
 ここでは、古く、筑紫平野まで北上した狗人が、韓半島由来の勢力に駆逐された事象が浮かび上がります。異族征服譚の類型。(*2)
 国譲り神話の建御名方神と建御雷神の逸話とは、鯰をトーテムとする建御名方神を、鹿を神使とする建御雷神が屠るという構図。さすれば、国譲り神話が狗人と韓半島に拘わる勢力との覇権抗争を投影している可能性があります。
 そういえば、大国主命は出雲の本殿の脇に筑紫社(つくしのやしろ)を鎮座させて、筑紫の姫神を娶り、自身の領域を九州にまで広げたともみえていました。建御名方命が大国主命の子神とされるのは、そういった意味でしょうか。

 神話は政治的意図を持って創作されたものとされます。しかし、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、何らかの史実を投影して創作されたことも事実でしょう。
 建御雷神を祀る常陸一宮の鹿島神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在があります。建御雷神はいまだに建御名方神の神霊を封じているということでしょうか。
 地中の鯰が地震を引き起こすといった言い伝えも、逆説的に解釈すれば、忌避された鯰トーテムの民の存在を畏れた人たちがつくりだしたものかも知れません。(了)


(*1)神社百景。「肥前、杵島の稲佐神社。」
    「筑紫の五十猛神。」筑紫神社。参照
(*2)「高良玉垂神の秘密。」高良大社と周辺の宮。参照





神社百景。「三女神の航路祭祀の秘密。宗像大社」

 宗像大社は韓半島との航路神で、玄界灘の孤島、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、そして、宗像市田島の辺津宮の三社の総称。全国7000余の宗像神社、厳島神社の総本社でもあります。
 祭神の宗像三女神は、沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神の三柱の総称で、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれます。

 記紀神話では、三女神は天照大神と素戔男命の誓(うけい)から生まれた姉妹神とされ、天照大神の命で、天孫を助けるために筑紫の宗像に降り立ったとされます。

 そして、神功皇后が三韓征伐の際、三女神に航海の安全を祈り霊験があったとされることから、半島航路の守護として崇められるようになったといわれます。

宗像6820

 沖ノ島では4世紀後半から5世紀にかけて、岩上祭祀が始まっています。

 4世紀後半の宗像においては、大型前方後円墳、東郷高塚古墳の西日本最大級の割竹形木棺に、翡翠勾玉、碧玉管玉、鉄器類を副葬させる強大な首長の存在があります。沖ノ島の航路祭祀に拘わる氏族でしょうか。
 また、4世紀なかばの赤間、田久瓜ヶ坂古墳からは、大和や吉備の円筒棺が出土して、畿内あたりの氏族の存在を思わせます。沖ノ島の航路祭祀が、国家祭祀として始まった痕跡なのかも知れません。

 また、沖ノ島の岩上祭祀では、巨石の上から三角縁神獣鏡などが検出され、津屋崎古墳群などの副葬品と共通するものも多いようです。

 古墳期の宗像は異彩を放っています。この時代の宗像は人種の坩堝。殊に、国際都市の様相であったといわれます。宗像の冨地原では5~7世紀の集落、倉庫群に大量の韓式土器が出土して、半島の渡来人で溢れていたようです。

 そして、秦氏の渡来が5世紀の頃とされます。韓半島を経由して渡来した秦の民は機織りを伝え、秦(はた)の氏姓を与えられたとも。
 日本書紀によると、秦氏は応神天皇14年に百済から百二十県の人を率いて帰化します。加羅または新羅から来たとも、一説には、秦(しん)の王族が韓半島経由で着いたものともされます。
 宗像沿岸の奴山に、日本最初の織物神を祀る縫殿神社が在ります。応神天皇期に織物技術を伝えた4人の織媛の伝説を残し、5世紀の新原奴山22号墳に縫殿宮跡を残します。

 これらの渡来集団は、宗像中枢で鍛冶工房や韓式器窯などの先進をも分布させ、5世紀の宗像を国際都市の様相としています。三女神の航路祭祀の生成にどう拘わったのでしょうか。

宗像6816

 そして、6世紀。530年頃、物部阿遅古連が、宗像で韓半島との航路を掌握し「道主貴(ちぬしのむち)」の祭祀を司ったとされます。
 日本書紀に「即ち日神の生れませる三の女神を以ては、今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり。」とあり、三女神は「水沼君」が斎る神であるとされます。一方、旧事本紀に「物部阿遅古連は水沼君等の祖。」とされます。

 古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼君の三潴は、東シナ海の大陸航路の拠点であったとされます。水沼氏族の巫女信仰なるものは、5世紀の頃には大陸航路の女神祭祀へと変質しています。
 そして、筑後の北野では、水沼氏族の女神祭祀が道主貴として(三女神の)田心姫命に習合しています。( *1)

 「物部阿遅古連(もののべのあじこのむらじ)」とは物部麁鹿火の弟。物部麁鹿火は磐井の乱の後、筑紫の統治を司っています。そして、物部阿遅古連をして、韓半島との「海北道」の祭祀として宗像で道主貴を祀らせています。
 その後、554年に倭は百済を救援。562年には新羅の侵入により任那が滅亡。大和王権は6世紀以降、たびたび韓半島に出兵し、宗像の重要性と半島航路祭祀の権威が高まっています。

 そんな中、7世紀になってはじめて、宗像氏族が登場します。645年に「胸形君」は、宗像神郡の大領と宗像大社の神主を任じられます。654年には胸形君「徳善」の女(むすめ)が、天武天皇の妃となり、後に太政大臣となる高市皇子を生んでいます。宗像氏の繁栄の時代です。

 のちの宗像氏となる「胸形君」の出自に関しては謎が多く、古く、胸に文身を入れて胸形氏。海人族といわれながらも海人としての側面が見られず、自身の氏神祭祀や摂末社も皆無。神宝類にも海人の匂いがしないといわれます。
 新撰姓氏録は「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也。」として、宗像氏を素盞鳴尊の嫡裔、大国主の流れの吾田片隅命の裔で、大神氏同族とします。

 大神氏が祭祀する大和の三輪山は、山頂の磐座に大物主神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神を祀り、三所祭祀とされます。
 その大神氏が下向し、宗像、沖ノ島の航路祭祀に三所祭祀を持ち込み、沖津宮、中津宮、辺津宮の祭祀としたという説があります。
 確かに、6世紀に物部阿遅古連が祭祀したとされる道主貴は、沖ノ島に祀られる田心姫命の一柱。また、田心姫命は出雲大社において大国主の妻神として祀られるなど、三女神の中でも特別な存在です。
 そして、沖ノ島で出土する4世紀後半に始まる祭祀遺物が、中津宮、辺津宮にはみられないといった謎が在ります。

 はたして、三女神の航路祭祀の生成のストーリーとは。

宗像6825

 宗像大社(辺津宮)境内の裏手の森に、田心姫神を祀る第二宮(沖津宮)、湍津姫神を祀る第三宮(中津宮)が鎮座して、厳かな空気が漂っています。

 田心姫神が祀られる沖ノ島(沖津宮)は玄界灘の孤島。九州と韓半島を結ぶ航路の半ば。
 島全体が神域で女人禁制とされ、男性であっても上陸前に海中での禊(みそぎ)を行ないます。住人はなく沖津宮の神職が在島するのみ。一木一草一石たりとも持ち出が禁じられ、島で見聞したことは一切、漏らしてはならないとする掟が今も守られています。

 沖ノ島の20数ヶ所の祭祀遺跡からは、4世紀から10世紀頃の大陸、韓半島製品を含む、銅鏡、金銅製の馬具、三彩陶器、玉類、刀剣、そしてペルシャのガラス椀などが発見され、その大量の遺物は一括して国宝に指定されました。ゆえに、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれます。

宗像6826

 宗像大社(辺津宮)、奥の山中には「高宮斎場」が在ります。ここは、宗像三女神が降臨した地とされる聖域。「木」を神が宿る神籬(ひもろぎ)として太古の祭祀形態をみせます。宗像大社最大のパワースポットとされる神秘的な空間。

 宗像に入った大和の祭祀氏族、大神氏は宇佐にも下向しています。宇佐神宮の生成は、古く、宇佐の国人、宇佐氏の比売神信仰に、渡来系の辛嶋氏がシャーマニズム(原八幡信仰)を持ち込み、さらに、6世紀に大神比義が応神の信仰を同化させたといわれます。そういう意味では、三女神の航路祭祀の生成とよく似ています。宇佐神宮の「比売大神」が宗像三女神とされるのも、このあたりに因るのかも知れません。


宗像大社
主祭神 田心姫神(沖津宮)湍津姫神(中津宮)市杵島姫神(辺津宮)
社格 式内社 名神大 官幣大社 別表神社
宗像大社(辺津宮)
福岡県宗像市田島2331


( *1)「高良玉垂神の秘密。」高良大社と周辺の宮。http://aburabaku.blog.jp/archives/cat_352299.html

神社百景。「日向神武天皇宮、宮崎神宮。」

 宮崎市の中枢に鎮座する旧官幣大社、宮崎神宮。神日本磐余彦尊(神武天皇)を主祭神とし、親神の鵜草葺不合尊と玉依姫命の2柱を配祀します。
 この宮は古く、神武天皇宮、神武天皇御廟などと称され、社伝によると社地は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地であり、のちに、九州に下向した皇孫の建磐龍命(阿蘇神社主祭神)が創祀し、崇神天皇期に社殿を創建したとされます。
 また、景行天皇の熊襲征討に際して、重ねて造営され、応神天皇期からは日向国造の祖、老男命(おいお)が祭祀したと伝えられます。この宮の歴史は殊に神話の世界。

宮崎神宮4008

 宮崎神宮略記は紀元前七年、神日本磐余彦尊が四十五歳にして、諸皇兄皇子と共にこの地を発進し、八十伴緒の群臣を統率して大和に入り、七年目の正月朔日、畝傍の橿原において宮殿を建て、第一代の天皇の御位に即いたと記します。
 現在、多くの歴史学者が神武天皇の実在を認めてはおらず、記紀の神武東征説話も史実ではありえないとします。が、神武東征が何らかの史実を投影したもので、神武天皇に投影された人物の存在までは否定できていません。

宮崎神宮6405

 神武東征において、常に神日本磐余彦尊の側に在って、能く藩屏とされた大久米命の存在があります。大久米命配下は皇軍の主力でした。
 「久米(くめ)」の発祥のひとつとして、肥後国球磨郡久米郷の存在があります。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地。久米はクマとも音され、九州中南の狗人に拘わるともされます。
 神武東征が魏史倭人伝にいう狗奴国(くな)勢力の東征、王権樹立を投影したとする説があります。神武東征神話における久米の存在が、九州中南の狗人と重なることで、狗奴国の大和東征説を補完するともみえます。
 そういえば、この宮崎の地も熊襲の至宝、弥生後期の「免田式土器」の拠点的出土域でした。「天神地祇。|久米氏考。天孫降臨と神武東征の実証」http://aburabaku.blog.jp/archives/20927467.html参照。


宮崎神宮
宮崎県宮崎市神宮
主祭神 神日本磐余彦尊(神武天皇)
旧官幣大社 別表神社

古代妄想。「久米氏考。天孫降臨と神武東征の実証。」

 橿原神宮は畝傍山の麓に広大な神域を広げていた。早朝の参拝であったため朝日が畝傍山の上方を茜色に染めて、神々しい。
 辛酉の歳、神武天皇元年の正月、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮にて践祚し、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」を称したという。
 明治に入り、国は橿原宮があったとされる畝傍山の南麓に橿原神宮を興し、それまで桜井の多武峰にて奉斎してきた神武天皇の神霊を移したとされる。天皇の陵墓は北麓の畝傍山東北陵、畝傍山の向こう側に在る。

橿原6089
畝傍山の麓に鎮座する橿原神宮。社地は神武天皇の畝傍橿原宮の地とされる。

 参拝を終えて近鉄橿原神宮前駅へと歩く。駅へ向かう参道の右手は久米町である。古えの大和国高市郡久米邑とされる。神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる「畝傍山以西の川辺の地」である。
 町の中央に久米御県神社が鎮座する。延喜式神名帳に大和国高市郡久米御県神社三座とある式内社。久米氏がその祖神を祀ったとする。北に隣接して久米仙人の説話が残る古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺がその町中に並んでいる。
 神武東征において、常に、神日本磐余彦尊の側に在って、能く藩屏となりし大久米命を想起する。
 が、現在、多くの歴史学者が神武天皇の実在を認めてはいない。記紀の神武東征説話も史実ではありえないとする。

 久米氏は古代日本における軍事氏族。高御魂命の後裔とする氏族と、神魂命の後裔とする氏族があるという。久米氏の祖神とされる天津久米命は大伴氏の祖神の天忍日命とともに武装して、瓊瓊杵尊の降臨を先導したとされる。
 古事記には天津久米命は靫を負ひ、頭椎の太刀を腰に着け、櫨弓(はじゆみ)を手に取り、真鹿児矢(まかこや)を手鋏みに持って天孫の先に立ったと記される。
 そして、神武東征においては大久米命が大伴氏の祖、道臣命とともに活躍、大久米命配下は神武王朝の藩屏として、皇軍の主力であったとされる。そして「撃ちてし止まむ」の久米歌は戦闘歌の代表とされる。殊に、久米氏はこの国の曙における干城というべき存在であった。
 神武天皇の存在や東征神話の真偽は別として、大和王権の創成期において、久米氏が王権の軍事力として貢献したのは間違いのないこと。

 久米氏は隼人系の海人ともいわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団でもあった。

 大久米命は黥利目(入墨目)であったという。魏志倭人伝に倭人は水人であり、黥面文身すると記され、入墨は海人たる倭人の習俗とされた。故に、久米氏は海人系の氏族とされる。
 そして、「久米(くめ)」の発祥のひとつとして、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在がある。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地である。
 久米はクマとも発音されるという。古代においてメとマは同じ音とされる。戦前の歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん。」と述べ、久米は狗人、のちの熊襲に拘わるとする。

 前項「狗奴国の謎。」においては、弥生後期の人吉盆地で熊襲の土器とも呼ばれる免田式土器(重孤文土器)を奉じた特異な集団が、呉の太伯の後を称する江南の民に拘わるともみえていた。
 古く、彼らは列島本来の縄文由来の民と同化、融合し、狗(く)人として九州中南に拡散している。九州中南は縄文遺跡の密集度において卓越しており、また、縄文と弥生文化の共存が極めて長いとされる。

 また、彼らが八代海沿岸から白川、緑川流域を北上した痕跡が、免田式土器の拡散に投影されている。そして、阿蘇を国邑として大量の鉄器を保有し、かつてない軍事力をもって、その領域を菊池川流域にまでに広げ、狗奴国を建国させるというストーリーが浮かび上がっていた(*1)。軍事の族、久米(狗人)の存在とこの集団が重なる。

 阿蘇に山部氏族の存在がある。阿蘇の山部氏族は阿蘇神社を中枢とする阿蘇山の祭祀を司る氏族であった。「山部」は部民制からきた職掌名だが、それが特定の族を示すともみえる状況があった。

 姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。即ち、隼人の祖が彦火火出見尊の兄、火闌降命であり、その兄弟の母が大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売であった。また、山幸海幸の神話が山猟と漁労の隼人や大山祇神の二面性で、山部と海部に投影されたとする。
 また、新撰姓氏録は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であったとする。魂志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとする。

 阿蘇の山部は久米氏同族であり、隼人にも纏わる氏族として、古く、九州中南域に在った狗人に由来するとみえる。そして、その山部氏族が鯰をトーテムとすることで、前述の列島本来の縄文の民と融合した、呉の太伯の後を称する江南の民に拘わるともみえていた。(*1)

kuruma-a
九州中南の神祇の中枢、阿蘇の考古は特徴的であった。弥生後期後半の阿蘇は、鉄器を出土する集落が最も密集する域であった。当時の先進、九州北部に対抗しうる勢力は、同時代の列島において阿蘇の域しかないとされる。


 阿蘇神話において、阿蘇の山部氏族は神武天皇の長子、日子八井命(草部吉見神)を祖神としている。
 前項「狗奴国の謎。」においては、魏志倭人伝にいう狗奴国が、阿蘇を国邑として、その領域を免田式土器の分布域、菊池川流域以南、八代海沿岸、球磨、人吉盆地、そして北薩摩域、日向南半として、筑後川流域をも蹂躙していたという事象がみえていた。また、草部吉見神社縁起は、阿蘇の故神、草部吉見神が筑紫を鎮護していたとする。(*2)

 これらの事象や伝承が、神日本磐余彦尊と狗奴国の存在を重ね、阿蘇の山部氏族が、神日本磐余彦尊の側(そば)に在って藩屏となりし、大久米命の流れとされることで、神武東征が九州中南の狗奴国勢力の東征、王権樹立を投影したものとする説を補完するとも思わせる。「翰苑」などに、倭人は呉の祖、太伯の後裔であるとされる由縁であろうか。
 旧唐書には、日本は倭国の別種であると記載され、もともと小国であった日本が倭国を併合したと記される。新唐書でも、日本は古くから交流のあった倭国とは別と捉えられ、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったなどの記述がある。

 弥生末期において、列島最大の鉄生産を誇る阿蘇あたりの鉄鏃は、北部九州のそれに比べて大型である。天久米命が装備したとされる、強大な霊力を潜ませた櫨弓(はじゆみ)と真鹿児矢(まかこや)の鏃として、いかにも相応しい。(了)

DSC02967
鹿児島湾に浮かぶ桜島。「桜島」の名は大山祇神の女(むすめ)、木花咲耶姫命(神阿多都比売、鹿葦津姫)に由来するともされる。


(追補)
 久米が球磨(肥、くま)ともされることで、球磨において免田式土器(重孤文土器)を奉じた呉の太伯の後を称する江南の渡来人に拘わる民ともみえていた。
 が、沖縄諸島の西端に久米島が在る。この島は水が豊富であり、古くから稲作が行われた島であった。久米は黒潮にのって南西諸島を伝い、南九州に上陸した族ともみえる。
 そして、久米が拘わる山幸海幸の逸話などが、インドネシアの神話をルーツとし、のちの隼人の楯などの渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアにおいて悪敵を払う呪術として見られることで、隼人に纏わる久米が、極南界の海人であったとも思わせる。
 神話においては隼人の祖が火闌降命であり、その母が大山祇神の女(むすめ)、そして、久米の流れとされる山部は、大山祇神に纏わるという。

 また、綿津見神、豊玉彦、豊玉姫父娘の系譜に投影された海人、鹿トーテムの民、大陸南岸の越人の痕跡も南九州に濃い。
 薩摩国一宮、枚聞神社の大宮姫は鹿から生まれたとされ、足にひづめがあったという。薩摩の西方に浮かぶ甑島に残る鹿の子百合は、九州西岸から日本海を遡り、越(こし)の村邑に広がる。それは、越の海人が愛した鹿子の模様を持つ百合であった。鹿児島とは鹿子の島。鹿屋に鹿ノ子、彼の地は殊に鹿だらけ。(*3)

 南九州に上陸した海人は多岐にわたり、また、この地が列島本来の縄文の民が繁栄した域であったことで、その共存は複雑な様相を呈している。
 それらが、天孫が婚姻をもって国つの民(大山祇神や綿津見神の系譜)と融合してゆく神話に投影されたものであれば、瓊瓊杵尊の南九州への降臨(上陸)も史実であったのかもしれない。

 日向神話の意義として、記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として山幸海幸の逸話が着想され、隼人の住地である南九州を天孫の降臨の地とする必要があったと述べられる。が、国家生成の大叙事詩が、そのような姑息な意図で構想されたものとは思えない。


「古代妄想」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen参照。
(*1)「阿蘇祖神、草部吉見神の考証。」
(*2)「狗奴国の謎。」
(*3)「越の海人。」

神社百景。「可愛山陵と薩摩新田神社。」

 鹿児島県薩摩川内市街の中央、比高60mほどの独立丘陵、神亀山上に邇邇杵尊の神蹟と共に、薩摩国一宮「新田神社」が鎮座します。祭神は邇邇杵尊、天照皇大御神、天忍穂耳尊。
 社伝によると、邇邇杵尊は降臨ののち、笠沙の地で大山祇神の女(むすめ)木花咲耶姫を娶り、北上して川内川河口に至り、川を溯って神亀山麓に都したとされます。
川内6459
長い石段を登ると山上に勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が直線上に並びます。

 境内末社として天孫降臨に随伴した五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱を祀る「二十四社」、降臨の道案内をしたとされる猿田彦命を祀る「興玉神社(太玉社)」、そして、天鈿女命の「高良神社(猴等神社)」、神亀山の地主神とされる大山祇神の「中央神社(中王社)」などが鎮座します。
 境外末社として、往古は薩摩総社であったとされる大己貴神の「大己貴神社(汰宮)」、甕速日神を祀る「九樓神社(くろう)」、樋速日神を祀る「守公神社」、八岐大蛇を祀る「八尾神社」と八咫鏡を祀る「鏡山神社」。随伴神、十郎大夫を祀る「船間島神社(海神宮)」などが鎮座します。
 神代の神々や、特異な古神を祀る多くの末社群は興味深いものがあります。殊にこの地は神話の国。


 山上の社殿群の後方には、邇邇杵尊の神陵とされる「可愛山陵(えのやまのみささぎ)」が鎮まります。日本書紀に「筑紫日向可愛山之山陵」と記される可愛山陵は、彦火火出見尊の高屋山上陵(霧島市溝辺町)、鵜草葺不合尊の吾平山上陵(鹿屋市吾平町)とともに神代三山陵の一つとされます。明治政府により明治7年に治定されました。

川内6454
邇邇杵尊の神陵は2段の基壇の上、玉垣に囲まれています。墳丘等は不明。一説には神陵は社殿の下に在るとも。老木が繁茂する森の中に、厳粛な空気が漂っています。

 神亀山は全体が亀のかたちをしており、その突出した頭の部分には邇邇杵尊の妃、木花咲耶姫の陵墓とされる「端の陵(はしのみささぎ)」が在ります。小祠が鎮座する小丘陵の上部は全長54mの出現期の前方後円墳ともされ、後円部に竪穴式石槨が一部が露出しています。が、隼人のものともされる地下式板石石室にも類似して興味深い墳墓です。
 亀の首の部分には御子の火闌降命の陵墓とされる「中の陵(なかのみささぎ)」が在り、ここも小祠付近から石槨が出土したとされます。神亀山は全山、真に興味深い神蹟です。川内6461
「聖蹟図誌」嘉永7年(1854)。川内川の岸辺から参道が真北に延び、300段以上の石段が山上の神蹟、社殿群まで続く。1km近い桜並木の参道が壮観。

神社百景。「肥前、杵島の稲佐神社。」

稲佐6352

 肥前、杵島の地主神として「稲佐(いなさ)神社」が鎮座する。国史見在社(六国史記載社)とされる古社である。創祀年代は不詳であるが、社伝によると天地開闢の頃に「五十猛神(いそたける)」を稲佐明神として祀ったという。
 この地は古く、住之江とも呼ばれる有明海の最奥の海辺であった。杵島山は古くは島であったとされ、杵島(きしま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
 社地は杵島山より突出した岬の突端、稲佐山の中腹の台。楼門からは有明海が眼前に広がる。
 北方の岬には五十猛神の妹神、抓津姫命(つまつひめ)を祀る「妻山神社」が鎮座する。社領から弥生中期の甕棺墓群が出土している。このあたりが拠点的な甕棺墓域の南西端。太古のこの地の繁栄を物語る。
 そして、麓の八艘帆ヶ崎(はっすぽ)には、五十猛神の上陸伝説が残る。神代、五十猛神は抓津姫命らとともに、韓地よりここ焼天神に着岸し、杵島全山に播種したと伝わる。


稲佐6355

稲佐神社の石敷きの長い参道。この社には複雑な歴史が重なっている。飛鳥期には百済より阿佐太子が来朝、この地に留まって両親の聖明王と王妃を相殿に合祀し、のちには阿佐太子も祀られたという。また、平安期の神仏習合において、空海はこの地に稲佐泰平寺を開き、真言寺十六坊と呼ばれる一大霊所とした。参道の脇には、今も寺坊が残る。

妻山6330
五十猛神の妹神、抓津姫命(つまつひめ)を祀る妻山神社。社地は中世の妻山城址でもある。妻山城は当地の地頭職、白石氏の築城。が、白石氏は南北朝期の争乱に巻き込まれ逼塞する。長い参道は馬場でもあり、今も流鏑馬が行われる。


 肥前、杵島では素戔嗚尊の子神、五十猛神はこの岬に上陸した「稲佐(いなさ)神」とされた。
 出雲では高天原より派遣された建御雷神と天鳥船神が上陸した浜が「稲佐(伊那佐、いなさ)の小濱」であった。そして国譲り神話の舞台ともされる。

 不思議な符合がある。国譲り神話の建御雷神は常陸国一宮、鹿島神宮に祀られるが、杵島の拠点域も「鹿島」とされる鹿の拘わりがある。
 建御雷神を祀る鹿島神宮や春日大社では「鹿」を神使とする。鹿をトーテムとする民とは阿曇氏をはじめとする、日本海沿岸に「越」の故名を残した江南の越人(干越)に由来する海人ともされる。
 八幡愚童訓は「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」として、博多湾口の志賀(鹿)島に祀られる阿曇氏の祖神、磯武良(いそたけら)と建御雷神を同神であるとする。
 そして、磯武良(いそたけら)が「五十猛神(いそたける)」と音を同じくして、同神ともされる。阿曇氏の拠、博多津の氏神、櫛田神社の大幡主神も佐渡や越後では当に五十猛神と重なっている。

 五十猛神は稲佐(伊那佐、いなさ)や、鹿トーテムの民を通じて国譲り神話の建御雷神と重なっている。



筑紫i0083
五十猛神を筑紫の国魂として祀る筑紫神社。


 国譲り神話において、建御雷神は「建御名方神」を諏訪に追いつめる。伝承では建御名方神が諏訪の湖まで逃れた折、大鯰が現れて建御名方神を背に乗せて対岸まで渡したとする。故に「鯰」は建御名方神の眷属とされる。
 阿蘇の主神、健磐龍命が別名、武五百建命であり、科野国造ともされる阿蘇と諏訪の拘わりがあった。
 阿蘇の古い民が「狗人」とされ、鯰をトーテムとする。そして、健磐龍命よりも先に阿蘇に下向した「草部吉見命」の後裔氏族とされる。諏訪大社上社大祝の系譜は、その草部吉見命(会知速男命)を「建御名方神」の後とする。

 また、阿蘇の古い民が奉祭する「蒲池媛」が、有明海沿岸の「與止日女(よどひめ)」などに習合して、これら鯰をトーテムとする比売神信仰の広がりは、中南九州の狗人が有明海沿岸から九州北部域へと領域を拡げた痕跡ともされる。


 五十猛神は筑紫の国魂として筑紫神社に祀られる。この社の後背に「基山」が聳え、古く、山上には五十猛神が在ったとされる。基山(きやま)も五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名。

 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢、須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、糸島や博多湾岸から、筑後や吉野ヶ里などの佐賀平野にまで分布する。
 甕棺墓は韓半島南域にも存在する。そして、甕棺墓域での朝鮮系無文土器の大量出土などは、甕棺墓域の民と韓半島南域との繋がりを示す。
 そして、九州北部域の拠点的な甕棺墓域には、必ずといっていいほど「五十猛神」が祀られている。糸島の白木神社群、早良の飯盛山、基山や杵島山など。九州北部域においては五十猛神祭祀域と甕棺墓域がみごとに一致して、伝承と考古の実体が重なっている。


 前述の基山の五十猛神は、南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承(つぶてうち)」を残し、それは戦さの記憶とされる。
 高良山に進駐し、五十猛神とせめぎあったのは「狗人」の神であった。基山の礫打伝承とは、五十猛神を奉祭する韓半島の由来の勢力と、高良に在った狗人との戦さの記憶。
 そして、基山と高良山に挟まれた小郡のあたりは「隈」地名が集中する域であった。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名とみえ、それを施したのは韓半島の支配氏族とされる。
 ここに、弥生中、後期、筑紫平野まで北上した狗人の勢力が、韓半島由来の民に駆逐された事象が浮かび上がる。異族征服譚の類型。(*3)
 国譲り神話の建御名方神と建御雷神の逸話は、「鯰」をトーテムとする建御名方神を、「鹿」を神使とする建御雷神が屠るという構図。
 さすれば、国譲り神話が狗人と韓半島に拘わる勢力との覇権抗争を投影している可能性がある。国譲りの説話は、日本書紀には記載されていない。

 そういえば、大国主命は出雲の本殿の脇に筑紫社(つくしのやしろ)を鎮座させて、狗人の媛神を娶り、自身の領域を九州中南の狗人域にまで広げたとみえていた。(*4)

 神話は政治的意図を持って創作されたものとされる。しかし、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、何らかの史実を投影して創作されたことも事実であろう。
 建御雷神を祀る常陸一宮の鹿島神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在がある。建御雷神(五十猛神)はいまだに建御名方神の神霊を封じているということであろうか。(了)



(追補)
 五十猛神は素戔嗚尊の子神。素戔嗚尊とともに新羅、曽尸茂梨に天降り、のち、共に列島に渡っている。
 建御名方神の父神とされる大国主神も素戔嗚尊の子神とも、六世の孫ともされる。五十猛神と大国主神は古く、同祖であった。
 弥生の早い時代に、大陸南岸の諸族「百越」の渡来があったとされる。その種は多く、故に百越と呼ばれる。句呉、干越もその一とも。稲作、断髪、鯨面など倭人と類似して、「百越の倭人」の名称がある。そして、その時代、韓半島南岸の民も同じ種とされる。


「古代妄想」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen参照。
(*1)「安曇と五十猛神。(続、筑紫の五十猛神。) 」
(*2)「宗像の鯰。」
(*3)「高良の神々の秘密。」
(*4)「出雲と狗人。出雲大社の神祇。」




古代妄想。「前方後円墳の秘密」

 橿原市の県立考古学研究所の博物館を訪れた。驚いたのは復元された巨大な円筒埴輪群。4世紀の前期古墳とされるメスリ山古墳より出土した大型円筒埴輪は、高さがなんと2.4m、その巨大さに唖然とする。
 大和盆地は国家発祥の地。かつての為政者は巨大な墳墓を築いて自身の威厳を保とうとした。前方後円墳の政治的な思惑。そして、その上には巨大な円筒埴輪を林立させて、見る者を圧倒した。
 前日に訪問した桜井市の埋蔵文化財センターでも、展示室の入口に巨大な土器壺が置かれていた。殊に、巨大化が大和盆地の感性であろうか。

 巻向6030
箸墓、後方は三輪山。
 
 奈良県桜井市の纏向は大和盆地の神奈備、三輪山の北西麓の小さな扇状地の末端。国の曙の地とは草花が咲き乱れる穏やかな里であった。
 このところ、メディアなどでは纏向遺跡にスポットが当てられている。ここで出土した3世紀の大型建物跡は、卑弥呼の居館とされ、大型水路や祭祀に関する遺物なども検出され、纏向は邪馬台国の有力候補地とされた。
 初期大和王権の発祥であろう纏向遺跡を、ぜひ、拝んでおかねばならぬという強い思いがあった。もとより、ここは王権の墓制、前方後円墳の発祥の地であった。箸墓をはじめとする出現期の前方後円墳群の存在に以前より強く惹かれていた。

 纏向遺跡の南に箸墓が在る。全長278m、最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型前方後円墳である。日本最初の巨大墳墓ということ。宮内庁は箸墓を倭迹迹日百襲媛命の墳墓として管理している。が、この古墳を魏志倭人伝が伝える卑弥呼の墓とする説は根強い。
 日本書紀の三輪山説話によると、倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神の妻となるが、大物主神の本体が蛇であることを知り、驚いて倒れこみ、箸で陰(ほと)撞いて死ぬ。箸墓は彼女の墓とされ、昼は人が造り、夜は神が造ったという。この伝承は、なんらかの史実を比喩したものであろうか。

 そして、箸墓以前のものとされる纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳、ホケノ山古墳など纒向遺跡内に点在する古墳は出現期古墳とされ、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。墳丘規模90~100mで、後円部に比べ前方部が著しく小さく低平で撥(ばち)形に開いている。
 纒向型前方後円墳おいて、後円部が埋葬のための墳丘で、小さな前方部は出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓など、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、祭壇や墓道であったと考えられている。
 また、埴輪の原型とされる特殊器台、特殊壺の存在や、弧帯文様(纒向石塚古墳出土の弧文円板)など、吉備との祭祀儀礼の共通がみられ、前方後円墳の成立過程での吉備との繋がりを示すとされる。
 故に、初期王権の権力母体は、弥生期の大和、畿内の勢力を基盤にしたものではなく、吉備など西日本域の国家連合によるものであるともされる。(wikipedia)

 前方後円墳の起源について壺形説の存在がある。確かに、纒向型前方後円墳は円丘が高く、前方部が小さく低平なため「壺」の形に似ている。また、「壺」の形は子宮や母胎の観念をもつとされる。そして、古代中国の神仙思想においては、仙境、蓬莱山のイメージが壺形であった。

 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢とされる須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、福岡平野から吉野ヶ里などの佐賀平野に分布する。
 甕棺墓とは甕や壺を棺として埋葬するもの。蓋や2個の甕を開口部で合わせた合口甕棺などの接合部は粘土などで密閉される。
 そして、甕棺内部で遺体は屈葬にされる。縄文期の埋葬が屈葬であった。これは死者が蘇るのを恐れたためといわれる。また、屈葬は子宮の中の胎児の姿でもあり、子宮への回帰と生命更新を祈る意味があったともされる。もとより、甕棺自体が子宮や母胎の観念であった。甕棺墓の思想背景。
 ホケノ山古墳の墓拡に何故か大型の壺が供献されていた。半分ほど土に埋まった大壺は、殊に前方後円墳の姿であった。

巻向6037
纏向石塚古墳の平面図、殊に土器壺の姿。

巻向6054
ホケノ山古墳の墓拡の大型壺。

 そして、九州北部域で盛行した甕棺墓は弥生末期には消滅する。それに連鎖するように弥生末期、3世紀の大和盆地に甕壺の形をした前方後円墳が出現するのである。巨大化が大和盆地の感性ともみえていた。
 銅鏡の大量副葬、そして鏡と剣、玉の三神器を副葬する習俗が、大和盆地を中心に古墳期の支配者層の習俗として一般化する。が、それらは、奴国王墓とされる須玖岡本遺跡や、伊都国の三雲南小路の王墓、平原王墓など、弥生期の甕棺墓域の神祇であり、弥生期の畿内には無かった習俗。逆に畿内の神祇、銅鐸は3世紀に突然、消滅している。
 初期の王権が吉備など西日本各域の連合による政権であったとすれば、その中枢は九州北部の甕棺墓域の勢力ではなかったか。

 また、出現期古墳とされる纒向遺跡内の纒向勝山古墳、東田大塚古墳、そしてホケノ山古墳、箸墓は、葺石に覆われていたことが確認されている。
 弥生前、中期の甕棺墓において、王墓など有力者の甕棺墓の地表面には標石と呼ばれる大石が設置されていた。奴国王墓とされる須玖岡本の甕棺墓も、巨大な上石と枕石と呼ばれる二つの大石を組み合わせて標石としている。
 また、熊本の新南部遺跡群では、弥生中期の甕棺墓の地表面を無数の礫石で覆う標石が検出されている。甕棺墓域の為政者は自身の墳墓を石造りとした。
 前方後円墳の葺石も墳墓を石造りとしたもの。出現期古墳の葺石とは甕棺墓の標石の延長ともみえる。

黒崎 一宮神社4259
八幡、王子本宮の礫石で覆われた円形と方形の磐境。考古学的にも貴重なものとされる。

 そして、前方後円墳はそのかたちを変化させてゆく。前方部を巨大化させ、撥(ばち)形の開きを直線化させるのである。
 北九州市八幡西区、一宮神社の王子本宮には、神武天皇が東遷の折、天神、地祇を祀ったとされる磐境(いわさか)が残されている。人頭ほどの礫石を敷きつめた古代祭祀の磐座で、神域をしめす柵の中、円形の天神と方形の地祇のふたつの磐座が祀られている。
 前方後円墳の定型化に際して、古代中国の「天円地方説」の存在が指摘される。天円地方とは古代中国の宇宙観。天は円形、地は方形であるとされ、円丘で天神を祀り、方丘で地祇を祀ったとする。故に、天を祀る「天壇」などは円形の構造物とされる。王子本宮の磐境とは、殊に天円地方の神祇。

 古代、晋の武帝(265年即位)の時に、円丘と方丘を合わせた壇を造り、冬至の祭祀儀礼が行なわれたという。魏志倭人伝にいう邪馬台国の使者が派遣された年のこと。
 縄文以来の子宮や母胎の観念を具現した壺形の墳墓は、新しい思想を得て、かたちを斉えてゆく。前方後円墳において、前方部が巨大化する由縁であろうか。(了)



「高良玉垂神の秘密。」高良大社と周辺の宮。

 筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座する高良大社(高良玉垂宮)は、古く、筑紫の国魂と仰がれ、筑後域はもとより、有明海沿岸や筑前にまでその信仰域を広げる。
 仁徳天皇55年(368年)の鎮座ともされるが、山内の出土遺物は太古の時代にまで遡り、その信仰の古さをみせる。御井の地名由来の山麓井泉群や奥宮の霊水、馬蹄石などの磐座群に太古の自然信仰の痕跡をみせ、神籠石の名称由来ともなった神域の列石の謎は、歴史のロマンを誘う。古田武彦の「九州王朝説」ではこの域に王朝があったともする。
 中世の神仏習合期以降は山岳密教の霊山として栄え、のちには天台の一千僧徒が奉仕し、山内には二十六寺三百六十坊を数えたという。

高良6162
高良大社(高良玉垂宮) 福岡県久留米市御井町
祭神 高良玉垂命、八幡大神、住吉大神 合祀 豊比咩大神
式内社(名神大)筑後国一宮 九州総社 鎮西宗廟


 高良山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端。景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれた。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となり、後には南朝、懐良親王が征西府を置き、秀吉の九州征伐では本陣とされた。この山は常に九州の軍事の要衝であった。
 社地より俯瞰すれば、足許には広大な筑紫平野が広がり、筑後川が蛇行しながら滔々と流れている。陽光を反射するその姿は一匹の巨大な龍。
 この平野を北上すれば太宰府を経て博多。南下すれば筑後から肥後国境へ。筑後川の上流は日田盆地を経て豊後へ。下流域には佐賀平野が広がっている。殊に九州の扇の要(かなめ)。筑紫、肥(火)、豊の国々を扼している。

高良6160

 この社の祭神論争は有名である。祭神の高良玉垂命には、武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神、高麗神説など多くの説がある。
 明治期までは武内宿禰説が主流であったという。山頂域の奥宮が高良廟と称して武内宿禰の墓所とされ、また、筑前域の分霊社など、多くの高良社が武内宿禰を祭神としている。が、それは江戸期に有馬藩が祭神を武内宿禰に特定したためともされる。
 高良玉垂命は記紀に出てこない「隠された神」。朝廷から正一位を授かった神なのに正体が判らない。

 久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は、高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったとされる。また、この社は三瀦の総社にて、高良玉垂宮の元宮ともされる。
 この玉垂命に関して、筑後国神名帳には「玉垂媛神」の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるともされる。
 禊(みそぎ)の介添えの巫女が「水沼(みぬま)」であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄であった。そして水沼が三瀦(みずま)に変化している。

 筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池と呼ばれる古族が、阿蘇の「蒲池比咩(かまち)」を祖とするという。そしてこの氏族が水沼氏族と重なる。
 阿蘇の蒲池比咩とは、阿蘇祖族の草部吉見氏族が奉祭する阿蘇の母神とよばれる女神。阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社に祀られる。この草部吉見氏族は「狗呉(くご)」の族ともされ、のちに日下部氏を称する。
 日下部氏族には多くの系譜があるが、日向、阿蘇、日田など九州の古い日下部氏族は、中南九州の狗人に纏わるとみえていた。「新撰姓氏録」は、日下部を阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也ともする。阿多とは隼人の中枢。
 中南九州においてはこの国の正統、列島本来の縄文の民は、江南より渡来した「句呉(くご、こうご)」の系譜などと同化、狗人ともされる「狗呉」の族。のちに半島由来の為政者に忌避され、熊襲ともされた。

 そして、水沼氏がのちに「日下部氏」を称している。水沼氏族と阿蘇の日下部祖族との拘わり。高良玉垂宮の神職に、高良神の裔を称する「日下部氏(草壁、稲員)」がある。そして、高良山、前衛を吉見の峰と呼ぶことで蒲池比咩の斎(いつき)、阿蘇の草部吉見の存在を伺わせる。
 この域では、古く、氏族の移動などに伴う同化、統合が行われるなか、阿蘇の日下部祖族など中南九州の狗人の比咩神信仰、阿蘇の「蒲池比咩の神祇」が持ち込まれた形跡。
 大善寺玉垂宮の神事「鬼夜」は壮大な火祭り。阿蘇神社の火振り神事とともに九州を代表する「火」の祭祀。殊に「火」の氏族の神事に相応しい。また、玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。火(肥)の伝承において、古く、蒲池比咩が潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る八代海の海神でもあった。
(*1)

高良6155
山麓の旧参道二之鳥居。傍に「高樹(たかき)神社」が鎮座する。


 高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。
 高木神の信仰に由来して「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。鷹とは高木神の「たか」に由来し、高上ゆえに天空高く在って疎薄、そして猛禽ともされた神の異名。鷹巣や鷹取、鷹群など「鷹」地名を散在させる神祇が九州北半域に広がっている。
 山麓の二之鳥居の脇に「高樹(たかき)神社」が鎮座し、地主神として高木神が祀られている。この社の縁起では、高木神はもとは山上に在ったが、玉垂神に山を貸したところ、結界を張って鎮座されため山上に戻れず、麓に鎮座しているという。

 この域には「高木氏族」の存在がある。この高木氏族は御井、北野、大城あたりを本地とし、のちに肥前の大族ともなる。この氏族は高木神に由来するとされ、その領域は北部九州の高木神祭祀域と重なる。
 そして、大善寺玉垂宮周辺にこの高木氏族が濃密に在り、水沼氏に由来する日下部氏族に拘わったとみられる。
 のちの高木氏族が「日」の神祇、日章の「日足紋」を家紋とし、同族の草野氏(くさの)が日下部(くさかべ)の名義に纏わるとされる理由(わけ)。そして、高木氏族が肥前一宮で奉祭する地神「與止日女(よどひめ)」は鯰を眷属とするなど、阿蘇の蒲池比咩が習合していた。この域において日下部氏族と高木神氏族との拘わりは深い。

玉垂宮3424
大善寺玉垂宮
福岡県久留米市大善寺町
祭神 玉垂命、八幡大神、住吉大神 三瀦総社
大善寺玉垂宮は高良玉垂宮の元宮ともされる。玉垂命はこの宮から高木神が在った高良山に遷ったものか。大善寺玉垂宮周辺には高木氏族が密集している。この項で記した高木氏族と日下部氏族の繋がりは、肥前出自の高木氏族の方に教えて頂いた。古代氏族の息遣いは連綿と今も続いている。


 九州北部域の神奈備、英彦山にも、高良山と同じ高木神伝承がある。英彦山の本来の祭神は高木神であり、山頂域が高木神祭祀の旧地であったとされる。英彦山神領の48の大行事社群は高木神を祀っていた。
 が、英彦山では高木神が自身の領域を譲った相手は「天忍穂耳命」であった。記紀神話での高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と天忍穂耳命の婚姻に由来し、英彦山は日の御子の山「日子山(ひこさん)」とされた。

 阿蘇の祖族の神祇は、阿蘇の火口に御幣を投げ入れて噴火を鎮める「火」の祭祀であった。が、その氏族はのちに日下部とされる。日下部とは日下(くさか)の職務を行う集団。日下の字を宛てられた「くさか」の職とは「日」に纏わる祭祀。阿蘇では「日」の祭祀氏族が「火」の祭祀を行っていた。
 漢字が持ち込まれる以前は、音がすべてであった。古く、列島の民は文字を持たなかった。太古、太陽である「ヒ」も、火炎である「ヒ」も、明るく、暖かいという意味にて同義ではなかったか。

 神話では「日」の神、天照大神の御子、天忍穂耳命は、高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と結ばれる。逸話は天忍穂耳命に纏わる天孫氏族が、高木神由来の民を婚姻をもって帰属させたという事象。
 それは「日」と「鷹」の神祇の交わり。高良域での「ヒ」の祭祀氏族、阿蘇の日下部祖族と高木神氏族との交わりが同じ構造。高良域での事象が、記紀神話に投影されたものかもしれない。

 高良域の「日」と「鷹」の神祇は、英彦山のみならず遠賀川流域、香春、日田あたりへも移植されている。
 遠賀川流域から香春二岳や添田の岩石山、そして英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られ、その域には「鷹」の神祇が重なる。
 そして、「日」と「鷹」の神祇に由来する氏族は、高良域やそれらの域に展開し、記紀神話における天孫の王権成立に際して、重要な役割を果たしている。

 高良域に痕跡の濃い物部氏族は、天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命の子神、饒速日命を祖とする。物部氏は高良大社において、大祝など重要な神職をつとめ、筑後域には物部氏族に拘わる社は多い。また、遠賀川流域でも物部氏族は兵伎の氏族として濃い痕跡を残している。
 高木神の裔とされる大伴、久米氏の祖神、天忍日命と天久米命は天忍穂耳命の御子、邇邇芸命の降臨を先導する。また、神武東征においては天忍日命の裔、道臣命が神武天皇に随伴し、久米氏と共に宮廷の軍事に携さわる。そして、高良山の所在、久留米は久米の転化ともされる。
 日田(ひた)においてはその地名由来も「日」と「鷹」の神祇、旭日と大鷹の神話による「日高」地名。古く高良域の東、日の出の地「日高見国」であったとする説。そして、のちの日田の日下部、靱部は天皇を守護する軍団であった。(*2)

高良6146
高良域の国史跡、安国寺遺跡。祭祀遺構からは100個に及ぶ鮮やかな丹彩土器が検出された。高良山麓には九州最古の古墳の一ともされる方墳、祇園山古墳の存在もある。弥生終末期の形式をもち、墳丘外周からは甕棺墓も検出されている。


 高良山下に安国寺遺跡が在る。遺構は弥生中、後期の111基の甕棺墓と17ヵ所の祭祀遺構。
 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢とされる須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、糸島や博多湾岸から吉野ヶ里などの佐賀平野に分布した。この安国寺遺跡あたりが、拠点的な甕棺墓域の南端であろう。
 甕棺墓は韓半島南域に存在し、甕棺墓域での朝鮮系無文土器の出土などから韓半島南域との繋がりを想起させる。

 高良山の北には筑紫平野が広がり、その向こうには基山が高良山と対峙するように聳える。基山には「五十猛神」が祀られ、基山(きやま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
 五十猛神も「筑紫の国魂」と呼ばれる。また、白日別神として基山山下の「筑紫神社」に祀られる。神話では、五十猛神は素戔嗚神の子神。素戔嗚神とともに新羅の曽尸茂梨に降臨、のちに列島に渡ったとされる。
 九州北部域の拠点的な甕棺墓域には必ずといっていいほどこの五十猛神が祀られている。糸島の白木神社群、早良の神奈備、飯盛山。そして、基山、西肥前の神奈備、杵島山など。九州北部域においては神話や伝承と考古の実体が重なっている。

 そして、基山の五十猛神は南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承(つぶてうち)」を残す。高良の神が投げた石は基山山麓の荒穂神社の境内に残り、五十猛神が投げた石は高良大社の床下に在るという。この伝承は戦さの記憶とされる。
 高良山と基山に挟まれた小郡のあたりは「隈」の地名が無数に集中する神祇。平野部の神奈備は山隈山、隈の山とされる。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名。そして、それを施したのは韓半島の支配氏族。弥生中、後期の頃、筑紫平野まで北上した狗人の勢力が、韓半島由来の勢力に駆逐された事象が浮かび上がっている。(*3)

 高木神の「鷹」と狗人の「日(火)」の神祇に、韓半島由来の為政者によって「隈」とされた神々の姿が重なって、殊に、九州北半域の三層構造。
 高良玉垂命や蒲池比咩が忌避されて「隠された神」とされた理由(わけ)もこのあたりにあるのかもしれない。
 記紀神話における、素戔嗚尊に由来する天照大神の「岩戸隠れ」の意味や、葦原中国を統治するために降臨する天孫が、「日」の御子の天忍穂耳命ではなく、邇邇芸命とされた理由(わけ)もこのあたりか。

山隈3727
筑紫平野の中央に聳える神奈備、山隈山(花立山)。「隈」の山とされ、周辺には「隈」地名が集中する。
大善寺玉垂宮の大祝が「隈(くま)氏」である。高良玉垂宮の神職にも「神代氏(くましろ)」があり、武内宿禰の裔を称し、宿禰の神の如き働きを表して、神功皇后が授けた名とする。「くましろ」とは隈(くま)に纏わり、武内宿禰自身が狗人の氏族であったのかもしれない。宿禰は九州において、狗人ともされる黒い神として伝承され、忌避されている。(*4)


 のちの時代、筑後域に在って水沼氏族は異色であった。日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述がある。「新撰姓氏録」は身狭村主青を「呉」の孫権の裔とする。
 三潴は東シナ海の大陸航路の拠点であった。江南への航路は、確かに博多湾、那ノ津よりも有明海のほうが有効であろう。古い時代、有明海は三潴のあたりまで湾入していた。

 日本書紀に「宗像三女神は水沼君が祀る神である。」と記される。三女神は航海神。水沼氏族は江南への航路祭祀を行っていた。江南の「句呉」の系譜こそ、その出自に相応しい。
 水沼氏の巫女信仰ともされた古い比咩神の神祇は、5世紀の頃には大陸航路の女神祭祀へと変質している。高良山の対岸、北野の赤司では蒲池比咩が水沼氏によって「道主貴(ちぬしのむち)」として、三女神の田心姫命に習合していた。

 大善寺の御塚、権現塚は水沼氏族の奥津城。特異な様式をもち、5世紀後半から6世紀初めの築造とされる。八女の筑紫君、磐井の岩戸山古墳にも劣らぬ巨大古墳。
 また、水沼氏は筑紫のみならず火(肥)や豊をも制圧したとされる磐井に隣接しながらも、磐井の乱(527年)を経て、その勢力を律令期にまで存続させている。水沼氏族は祭祀氏族として古代最大の戦乱をその中枢で生き延びている。水沼氏族の特殊性。
 「旧事本記」は水沼氏の祖を物部阿遅古連とする。が、物部阿遅古連は磐井と戦った大連、物部麁鹿火の弟であり、時代が合わない。が、その記述は磐井の乱に拘わった水沼氏と物部氏の密接な関係を想起させる。
 そして、水沼氏族の航路祭祀は物部阿遅古連によって玄界灘沿岸、宗像へと持ち込まれ、「宗像」を冠した三女神は韓半島航路の国家神として祭祀される。磐井の乱の後、筑紫の統治を司る物部麁鹿火は、弟の物部阿遅古連をして韓半島との航路を掌握させ、「道主貴」とされた航路神を祀らせたとする。


 一方、筑後域に在って隆盛を誇る水沼氏族は、筑後域の守護神としての景行天皇祭祀を主体とする。古く、景行天皇は九州巡行の折、高良山に行宮を置き、筑後国を開拓したとされる。
 水沼氏族は景行天皇の一族を称し、氏神とされた景行天皇の神霊を神体山、高良山に祭祀する。天皇の名が大足彦、神名が玉垂神。「足」と「垂」が「たらし」にて同義であるとする説。
 日本書紀では、景行天皇の妃である「襲の武媛」が生んだ、国乳別(くにちわけ)皇子を水沼君の祖とする。襲の武媛とは熊襲の女(むすめ)であるとされる。熊襲の女と蒲池比咩の伝承が重なる。太古の蒲池比咩の記憶が「襲の武媛」として蘇ったものか。

大城豊比咩神社
豊比咩神社
式内社(名神大)「豊比咩神社」の論社は4社ある。久留米市上津、本山天満神社の境内社の「豊姫神社」。筑後川の畔、大城の「豊比咩神社」。高良山の対岸、水沼氏に因む北野の赤司八幡宮も古くは「豊比咩神社」であった。そして、高良大社に合祀された、高良山鎮座の失われた「豊比咩神社」。邪馬台国を御井のあたりと想起して、この域の女神群、蒲池比咩を卑弥呼の投影とし、豊比咩神を台与とみる説なども興味ふかい。


 さて、高良山のもうひとつの謎、「豊比咩命(とよひめ)」の存在がある。高良大社は「豊比咩神」を合祀する。縁起では「高良玉垂命、豊比咩神の二神を主神とし、左右の相殿に八幡大神と住吉明神を祀る。」とする。高良玉垂命を考えるうえで、豊比咩神の存在ははずせない。
 古く、名神大社「豊比咩神社」が、高良玉垂宮と並んでこの山に鎮座していたとされる。失火により今は高良大社に合祀されているという。

 伝承では、豊比咩命は高良玉垂命の妃であるという。古く、高良域での「日」の氏族と高木神氏族の交わりが、記紀神話に投影されたとすれば、高良玉垂命の妃、豊比咩命とは、高木神が天忍穂耳命に嫁がせた女(むすめ)の「萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)」ということか。
 英彦山域において、萬幡豊秋津師姫命の神霊は「鷹巣(たかす)の神」豊比咩命として、その神祇は香春あたりを経て、豊前に繋がっていた。
 香春の豊比咩命の宮は、鷹巣(たかす)の森に鎮座する「古宮八幡宮」。ここでの豊比咩命は「日」の神を象徴する銅鏡の化身。ここで鋳造された銅鏡は宇佐の放生会において、八幡神の正躰として宇佐八幡宮に奉納される。ゆえに豊比咩命は宇佐の元神とされる。
 そして、豊比咩命の宮、香春の古宮八幡宮が古く「阿曾隈(あそくま)の宮」と呼ばれた。豊比咩命はやはり阿蘇の「蒲池比咩(かまち)」に纏わるとみえる。蒲池比咩は肥(火)の宇土における金属精錬の神でもあった。

 「日(火)」の神祇、阿蘇の蒲池比咩の神霊は、高良域において玉垂媛神、そして豊比咩命ともされ、香春においては「日」の神、銅鏡の化身として「豊」の国魂の日輪神、豊日別神、そして、宇佐の比売大神にも繋がっていた。
 古社考証の書「神社覈録(じんじゃかくろく)」の高良大社の項に「高良は加波良(かわら)と訓べし。」とある高良と香春の拘わり。(*5)

香春1205
天忍穂耳命を祀る香春二ノ岳と豊比咩命を祀る三ノ岳。


 鎌倉期の元寇以降、八幡神信仰が隆盛となり、北部九州の神々は宇佐八幡宮の傘下に入り、神功皇后伝承や八幡神信仰を受け入れたとされる。

 高良大社の縁起は豊比咩命を神功皇后の妹であるとする。また、のちの時代、高良玉垂命ともされた武内宿禰は、壱岐真根子命の娘の豊子と結ばれ、高良大社の境内社には壱岐真根子命が祀られる。ゆえに豊比咩命とは、壱岐真根子命の娘の豊子の投影ともされた。

 が、高良玉垂宮では八幡神信仰隆盛の時代に、石清水八幡宮の拘わりで「高良玉垂宮縁起」が編纂されている。そして、その内で高良玉垂命自身が、三韓征伐に随行したという伝承や、妃の豊比咩命が神功皇后の妹とされること、そして、住吉明神との拘わりなどが付加されている。
 さらに高良神と武内宿禰の拘わりとは、高良玉垂命が「藤大臣」と称して三韓征伐に随行したとすることに由来している。

 高良山には山岳密教も持ち込まれ、高良神は権現ともされた。そのうえ八幡大神、住吉明神も配祀され、武内宿禰の拘わりまでも加わって、高良神はその系譜の複雑さをみせる。
 高良玉垂命とは誰かと、敢えて問えば「蒲池比咩」であり「景行天皇」であり、神話の系譜でいえば「天忍穂耳命」ということになるのであろうか。また、江戸期には「武内宿禰」であったということになる。

 注目すべきは、古く、高良域での「日」と「鷹」の神祇の交わり。「日(火)」の祭祀氏族、阿蘇の日下部祖族と高木神氏族の事象が、「日」の神、天照大神の御子の天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命との婚姻と同じ構造であり、記紀神話に投影された可能性。
 天忍穂耳命と萬幡豊秋津師姫命の御子、邇邇芸命が降臨する逸話を勘案すれば、神功皇后と武内宿禰の存在、そして応神天皇の東征の逸話も、その残影なのかもしれない。(了)


古代妄想。http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/参照
(*1)「九州古史譚1 古層の神々。」
(*2)「日(火)と鷹の神祇。高良の日下部氏族。」「矢の神祇。日田の靱編連。」「九州古史譚2 高木神氏族と狗人。」
(*3)「九州古史譚3 筑紫の五十猛神。」
(*4)「御手長の話。」「黒い神の系譜。」
(*5)「豊比咩命の系譜。」「鷹巣(たかす)の神。」


記事検索
ギャラリー
  • 神社百景。「開聞岳と海神の宮、枚聞神社。」
  • 神社百景。「開聞岳と海神の宮、枚聞神社。」
  • 古代妄想。「王権成立ストーリーが秘められた住吉神祭祀。」
  • 古代妄想。「王権成立ストーリーが秘められた住吉神祭祀。」
  • 古代妄想。「古代史最後の謎。稲荷神の生成ストーリー。」
  • 古代妄想。「古代史最後の謎。稲荷神の生成ストーリー。」
livedoor プロフィール
Amazonライブリンク