天神地祇。

神社百景|古代妄想|神社縁起や地域伝承から古代史の謎を解く。

古代妄想。「王権成立ストーリーが秘められた住吉神祭祀。」

大阪の住吉区に鎮座する摂津国一宮、住吉大社は全国に2千社あるとされる住吉神社の総本社。航海神、住吉大神を祭祀します。住吉大神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の神で、神話では伊弉諾(いざなぎ)尊が禊(みそぎ)をしたときに生まれた神とされます。また、「筒」とは星のこと。底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の神とは三つ星の神格化ともされます。

大陸の上海の南、浙江省に天台山があります。古く、後漢の頃から霊地とされ、神仙の道士が多く住み、神仙思想の大元ともされます。三つの峰をもつ天台山は天帝の星、紫微星(北極星)を支える三つの星、三台星の真下に在るとされ、三つ星を宗紋とするのちの天台宗もこの山で生まれています。紫微星(北極星)に寄添って並ぶ三台星は、古代中国では紫微星を支えるとされる上台、中台、下台の三つ星で「三筒」とも呼ばれます。

三台星は江南の海人にとって大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを指し示します。そして、北を導く三台星は航海神ともなります。三台星(三筒)を神とする江南の海民は、蛮とされて北方の漢人に追われ、東シナ海で黒潮に乗って北上、列島へと渡ったといわれます。

住吉神社1
福岡市博多区住吉に鎮座する筑前国一宮、住吉神社。古記に「住吉本社」とされ、住吉大社の元宮ともされます。かつての那ノ津(冷泉津)の浜に鎮座して、社地は弥生中後期の遺跡ともされます。遺跡からは銅矛、銅戈が出土、墳墓以外に埋納された最古の例であり、この社の祭祀は弥生期にまで遡るといわれます。

住吉神社2
博多の住吉神社の絵馬に描かれた鎌倉期のものとされる博多古図。中央の入り江が那の津(冷泉津)、湾奥の那珂川の河口付近、木立ちが描かれた岬が社地。縁起では黄泉から戻った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの社地であり、住吉大神が生まれた浜とされます。太古、神殿は那の津の海辺に鎮座して、社頭の潮入りの池をその痕跡とします。


古く、博多の住吉神社の社家、佐伯(さえき)氏は大伴氏族とされ、隼人を率いて宮門守護を務めます。その名は外敵を遮(さへ)ぎるの意。天帝の星、紫微星(北極星)を守護する三台星とは海人氏族の武威の象徴ともされます。大伴氏族は邇邇藝(ににぎ)命の降臨を先導したとされる天忍日命の後裔。神武東征神話では大伴祖人、道臣命が、隼人に纏わる久米を率いて皇軍の主力となっています。(*1)

のちの時代、大伴氏族は摂津や河内あたりを本拠として、大伴金村の「住吉の宅」の存在があり、住吉には大和王権の港、住吉津が所在。住吉大社の社家、津守氏が住吉津の「津守」であったとされます。大阪、住吉大社の住吉神祭祀には、隼人に纏わる海人氏族が中央に進出した痕跡や神武東征神話との繋がりがみえ、そこには大和王権成立のストーリーさえ秘められています。


(*1)古代妄想。「久米の鯰。鯰トーテムの氏族と神武東征。」参照


住吉大社
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
公式サイトhttp://www.sumiyoshitaisha.net/

住吉神社(住吉本社)
福岡県福岡市博多区住吉3-1-51
公式サイトhttp://chikuzen-sumiyoshi.or.jp/





古代妄想。「久米の鯰。鯰トーテムの氏族と神武東征。」

 橿原市の畝傍山東南の麓に、神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座します。明治23年、国は神武天皇の橿原宮があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷します。

 この国を治めるために、日向の高千穂宮より東行した神日本磐余彦尊は6年を費やし、熊野から吉野を経て大和に入り、畝傍山の麓に宮処を置きます。現在の史学では神武天皇の存在を含め、東征説話は内容が神話的であり、史実とは考えられないとします。が、神武東征が何らかの史実を投影しているという説には根強いものがあります。

 橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地。町の中央の久米御県神社は大久米命を祀ったとする式内社。社前には来目邑伝承地の碑が建ちます。隣接して久米仙人の説話を残す古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が町中に並びます。

 神武東征において、神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏とされた大久米命の存在があります。久米氏は古代日本における軍事氏族。神話では邇邇芸命の降臨を先導した氏族とされ、神武東征において大久米命配下は皇軍の主力であったといわれれます。

 久米氏は隼人系の海人といわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団。大久米命は黥利目(入墨目)で、入墨は海人の習俗とされます。そして、のちの隼人が天皇や王子の近習とされ、宮中の守護にあたります。大和王権の創成期において、久米氏族が王権の軍事力として貢献したのは間違いのないこと。橿原に残る久米氏族の痕跡は、神武東征や橿原宮の史実性を感じさせます。

 そして、前述の久米氏の氏寺、久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたといわれます。


橿原6086
畝傍山麓の橿原神宮

 久米氏族の原初を東南アジアのクメールとする説があります。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナム南域にも分布、高床式の住居に住み稲作を行い、精霊信仰をもちます。

 メコン川は東南アジア最大の川。中下流域に生息するメコンオオナマズは世界最大の淡水魚で全長2、3mほどにもなり、タイでは神の使いとされます。カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれて神聖視されています。

 鯰をトーテムとする久米氏族をクメールに纏わる極南界の海人とする説には興味深いものがあります。のちの隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアの楯に悪敵を払う呪術として見られ、隼人が拘わる山彦海彦の逸話などが東南アジアの神話をルーツとする話も、それらを補完するともみえます。

 倭人に拘るとされる百越の民とは、古く、大陸の南方、江南からベトナム(越)にいたる広大な沿岸域に在った非漢人諸族の総称。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、南域ではクメールと同化していたともされます。


大森58
今も生きつづける鯰の信仰


 久米(くめ)氏族の発祥として、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在が指摘されます。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲(くまそ)の地。古代においてメとマは同音とされ、久米はクマとも発音されます。歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と述べ、久米は狗人、熊襲に拘わるとしました。

 鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。阿蘇の開拓神、健磐龍命の神話では、健磐龍命は大鯰を退治して田畑を拓きます。この逸話は中央から下向した氏族に鯰トーテムの民が服属する図式を示すといわれ、阿蘇の古い民は鯰の信仰をもつとされ、阿蘇の古社には神使として鯰が祀られます。そして、新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。

 南海から北上する黒潮に沿って、九州の南に弧を描く南西諸島の久米島や、散在する久間や来間(くま)地名も興味深いものがあります。古く、江南には句呉(くご)が存在し、極南界の海人は大陸沿岸や南西諸島を網羅して、九州南半に至ったともみえます。

 神武東征とは神日本磐余彦尊が九州南半の狗奴国勢力を率いて東行したものでしょうか。狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。(*1)


(*1)古代妄想「狗奴国の謎。」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/fab018722aca1fa149d432a0ec552f52

(追補)
 橿原の南、飛鳥に亀石の伝承が伝わります。昔、大和盆地が湖であった頃、川原の鯰と当麻の蛇が争い、川原の鯰が敗れて湖水を当麻に取られます。そのため川原は干上がり、多くの亀が死に絶えます。人々は亀の霊を慰めるために亀石を祀ります。古く、大和に在った鯰をトーテムとする民は、蛇トーテムの氏族と権力争いをしたのでしょうか。

 また、宗像の伝承において建御名方神(タケミナカタ)が鯰をトーテムとすることなども興味深いものがあります。武甕槌命(タケミカヅチ)を祀る常陸一宮、鹿島神宮や下総一宮、香取神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在があります。国譲りで武甕槌命に戦いを挑んだ建御名方神の神霊をいまだに封じているということでしょうか。

 地中の大鯰が地震を引き起こすといった伝承も逆説的に解釈すれば、忌避された鯰トーテムの民の存在を畏れた人たちがつくりだしたものかも知れません。初期王権の成立に拘わった鯰をトーテムとする民が忌避されるに至った痕跡。そこには国譲り神話の本質が隠されているのかもしれません。





鯰の信仰。「川上の與止日女と阿蘇の蒲池媛。」

 九州には「鯰」(なまず)を崇める地域があります。佐賀平野の北部は背振山塊が大きな根張りを広げ、山内(さんない)と呼ばれる広大な山間の地をつくっています。山内の最奥、上無津呂の里に淀姫神社が鎮座します。この社の境内に鯰の石像があります。その石像は真新しく、今でも「鯰」の信仰が生きていることを如実に感じさせます。

 山内の中枢、古湯の淀姫神社や三瀬、杠の野波神社など、山内の多くの神社に「淀姫」(よどひめ)が氏神として祀られています。この淀姫神とは山内に流域を広げる嘉瀬川が、佐賀平野に流れ出す川上の地に鎮座する肥前国一ノ宮、與止日女神社(川上神社)の祭神、「與止日女(よどひめ)」のこと。與止日女は肥前風土記に登場する地神。肥前の有明海沿岸には與止日女を祀る神社は多く、中でもこの嘉瀬川流域には6社が祀られます。そして、與止日女は鯰を眷族(神使)とします。

 與止日女の信仰は背振山地を越え、筑前、那珂川の守り神ともなっています。與止日女は旧筑紫郡岩戸村の那珂川畔で伏見神社の祭神、淀姫命として祀られます。ここでも鯰は神使とされ、宮前の淵の鯰は、平時は姿を見せず、天下の変事に現れるとされます。神功皇后の三韓征伐や大阪夏の陣、島原の乱、日清、日露の戦争で現れたとされます。

 また、筑前、志摩の桜井神社には神功皇后の首に鯰がまきつく絵馬が掲げられています。この社の楼門の扁額には「與止妃大明神」とあり、古く、與止日女が祀られていました。背振山地を越えた與止日女の信仰は、玄界灘沿岸にまで達しています。

伏見神社97b
筑前、那珂川の守り神、伏見神社の鯰の絵馬。

 鯰を神使とし、崇める人々とはどういう民でしょう。鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。阿蘇の開拓神、健磐龍命による「蹴破り神話」と呼ばれる伝承があります。
 昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったといわれます。健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため、満身の力で湖の壁を蹴り壊します。湖の水は流れ出しましたが大鯰が横たわり、水をせき止めます。健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流します。

 阿蘇神話では健磐龍命(たけいわたつ)が九州鎮護のため阿蘇に下向し、開拓してゆくさまが述べられます。古く、阿蘇には草部吉見命(日子八井命)が在ったとされます。紀元76年に神武天皇の孫である健磐龍命が下向し、健磐龍命は草部吉見命の女(むすめ)阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着します。大鯰の逸話は中央から派遣された氏族に、鯰をトーテムとする先住の民が征服されるという図式を表しているといわれ、阿蘇の古い民は鯰をトーテムとするとされます。

 阿蘇の大鯰の霊は阿蘇北宮、国造神社の鯰宮に祀られます。阿蘇の手野に鎮座する国造神社は、健磐龍命の子、速瓶玉命と妃の雨宮媛命を祀ります。が、国造神社は阿蘇神社の元宮ともされ、本来は、阿蘇の神々の母とも呼ばれる蒲池媛を祀るといわれます。「蒲池媛(かまちひめ)」は八代海、宇城の地より阿蘇に入り、阿蘇の神に嫁いだとされます。また、蒲池媛は神功皇后の三韓征伐に従い、満珠干珠の玉で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたといわれる八代海の海神でした。



 肥前、川上の與止日女も肥前国風土記に「海の神、鰐魚が流れに逆らって上りきて、神のところに到るに海の小魚もしたがって来る。」と記される海神で、川と海の水を操作する二つの珠で、有明海の干満を操作したとされます。鯰の信仰や満珠干珠を通して、川上の與止日女と阿蘇の蒲池媛が重なります。そして、上益城の鯰三神社、菊池の乙姫神社、山鹿の二宮神社など、肥後から筑後にかけて、阿蘇神に纏わる10社以上の神社で「鯰」が祀られます。

 さて、鯰を神使とする女神を祀り、潮の満ち引きを操る海人とは何処からきたのでしょうか。後漢書倭伝に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とあり、注釈によると「魚是」は鯰の意。(魚是は一つの文字)そして、会稽の海外の東魚是人とは、漢の会稽郡の東、列島の二十余国であるとされます。民俗学の谷川健一は、この東魚是人とは鯰をトーテムとする民のことであり、大鯰の伝承をもつ阿蘇の民を指摘しています。

 古く、呉人の風俗が提冠提縫と表され、提とは鯰、呉人は鯰の冠を被るとされました。呉は長江の下流域に在って、BC473年に越に滅ぼされます。呉人は海人、東シナ海から列島へと渡ります。大陸の史書に倭人は呉(句呉)の祖、「太伯」の後裔であり、入墨などの習俗は共通すると書かれます。殊に、鯰をトーテムとし、潮の満ち引きを操る海民とは、長江の下流域から列島へと渡った「句呉(こうご、くご)」の民とも思わせます。

 太宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書「翰苑(かんえん)」は「女王国の南の狗奴国が、自ら 太伯の後であると謂った。」と記します。この狗奴国がのちに熊襲とされる九州中南の狗人勢力であれば、その中枢は阿蘇あたりが相応しい。

 筑後、三瀦(みずま)に鎮座する大善寺玉垂宮は、古代氏族、水沼氏(水間、みぬま)が、始祖を玉垂神として祀ったとされます。また、この宮は高良玉垂宮の元宮ともされ、筑後国神名帳には玉垂媛神の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるとされます。筑後の名族とされる蒲池氏(かまち)において、祖蒲池と呼ばれる古族が阿蘇の蒲池媛を祖とします。そしてこの古族が前述の水沼氏族と重なります。玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。

 日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(むさのすぐりあお)が、呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述があります。古く、有明海は三潴のあたりまで湾入し、三潴は大陸交易の拠点でした。そして、水沼氏族は江南との航路祭祀を行っていました。江南の句呉の系譜こそ、その出自に相応しい。

 古く、肥前の與止日女神社を奉祭する高木氏族は高良あたりを本地とし、大善寺周辺に濃密に存在して玉垂神祭祀に拘わっています。鯰を神使とし、潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る女神は、八代海から有明海沿岸を北上し、川上の與止日女に習合してその信仰域を広げています。

高良6162
高良玉垂宮

 肥前、嬉野の温泉街に豊玉姫神社が鎮座します。豊玉姫命を祀り、やはり、鯰を神使として、なまず社には大きな白磁の鯰像が鎮座します。古来より肌の病いにご利益があるとされ、温泉と相俟って美肌の神とされています。豊玉姫命は潮干珠、潮満珠を操る海神の女(むすめ)。神話では海神の宮にやってきた山幸彦(火遠理命)と結ばれ、鵜葺屋葺不合命(神武天皇の父)をもうけます。ここでは、鯰を神使とし、潮の満ち引きを操る海人の女神は、記紀神話の姫神とも習合しています。

 蒲池媛、與止日女、世田姫、豊姫、そして豊玉姫。鯰に纏わる女神たちの存在は、歴史の中で複雑に絡み合って分離し、また、融合しています。為政者によって忌避された神を、民は名を変えて祀るのでしょうか。(了)









神社百景。「三女神の航路祭祀の秘密。宗像大社」

 宗像大社は韓半島との航路神で、玄界灘の孤島、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、そして、宗像市田島の辺津宮の三社の総称。全国7000余の宗像神社、厳島神社の総本社でもあります。
 祭神の宗像三女神は、沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神の三柱の総称で、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれます。

 記紀神話では、三女神は天照大神と素戔男命の誓(うけい)から生まれた姉妹神とされ、天照大神の命で、天孫を助けるために筑紫の宗像に降り立ったとされます。

 そして、神功皇后が三韓征伐の際、三女神に航海の安全を祈り霊験があったとされることから、半島航路の守護として崇められるようになったといわれます。

宗像6820

 沖ノ島では4世紀後半から5世紀にかけて、岩上祭祀が始まっています。

 4世紀後半の宗像においては、大型前方後円墳、東郷高塚古墳の西日本最大級の割竹形木棺に、翡翠勾玉、碧玉管玉、鉄器類を副葬させる強大な首長の存在があります。沖ノ島の航路祭祀に拘わる氏族でしょうか。
 また、4世紀なかばの赤間、田久瓜ヶ坂古墳からは、大和や吉備の円筒棺が出土して、畿内あたりの氏族の存在を思わせます。沖ノ島の航路祭祀が、国家祭祀として始まった痕跡なのかも知れません。

 また、沖ノ島の岩上祭祀では、巨石の上から三角縁神獣鏡などが検出され、津屋崎古墳群などの副葬品と共通するものも多いようです。

 古墳期の宗像は異彩を放っています。この時代の宗像は人種の坩堝。殊に、国際都市の様相であったといわれます。宗像の冨地原では5~7世紀の集落、倉庫群に大量の韓式土器が出土して、半島の渡来人で溢れていたようです。

 そして、秦氏の渡来が5世紀の頃とされます。韓半島を経由して渡来した秦の民は機織りを伝え、秦(はた)の氏姓を与えられたとも。
 日本書紀によると、秦氏は応神天皇14年に百済から百二十県の人を率いて帰化します。加羅または新羅から来たとも、一説には、秦(しん)の王族が韓半島経由で着いたものともされます。
 宗像沿岸の奴山に、日本最初の織物神を祀る縫殿神社が在ります。応神天皇期に織物技術を伝えた4人の織媛の伝説を残し、5世紀の新原奴山22号墳に縫殿宮跡を残します。

 これらの渡来集団は、宗像中枢で鍛冶工房や韓式器窯などの先進をも分布させ、5世紀の宗像を国際都市の様相としています。三女神の航路祭祀の生成にどう拘わったのでしょうか。

宗像6816

 そして、6世紀。530年頃、物部阿遅古連が、宗像で韓半島との航路を掌握し「道主貴(ちぬしのむち)」の祭祀を司ったとされます。
 日本書紀に「即ち日神の生れませる三の女神を以ては、今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり。」とあり、三女神は「水沼君」が斎る神であるとされます。一方、旧事本紀に「物部阿遅古連は水沼君等の祖。」とされます。

 古く、有明海は三潴(みずま)のあたりまで湾入して、水沼君の三潴は、東シナ海の大陸航路の拠点であったとされます。水沼氏族の巫女信仰なるものは、5世紀の頃には大陸航路の女神祭祀へと変質しています。
 そして、筑後の北野では、水沼氏族の女神祭祀が道主貴として(三女神の)田心姫命に習合しています。( *1)

 「物部阿遅古連(もののべのあじこのむらじ)」とは物部麁鹿火の弟。物部麁鹿火は磐井の乱の後、筑紫の統治を司っています。そして、物部阿遅古連をして、韓半島との「海北道」の祭祀として宗像で道主貴を祀らせています。
 その後、554年に倭は百済を救援。562年には新羅の侵入により任那が滅亡。大和王権は6世紀以降、たびたび韓半島に出兵し、宗像の重要性と半島航路祭祀の権威が高まっています。

 そんな中、7世紀になってはじめて、宗像氏族が登場します。645年に「胸形君」は、宗像神郡の大領と宗像大社の神主を任じられます。654年には胸形君「徳善」の女(むすめ)が、天武天皇の妃となり、後に太政大臣となる高市皇子を生んでいます。宗像氏の繁栄の時代です。

 のちの宗像氏となる「胸形君」の出自に関しては謎が多く、古く、胸に文身を入れて胸形氏。海人族といわれながらも海人としての側面が見られず、自身の氏神祭祀などは無く、神宝類にも海人の匂いがしないとされます。
 新撰姓氏録は「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也。」として、宗像氏を素盞鳴尊の嫡裔、大国主の流れの吾田片隅命の裔で、大神氏同族とします。

 大神氏が祭祀する大和の三輪山は、山頂の磐座に大物主神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神を祀り、三所祭祀とされます。
 その大神氏が下向し、宗像、沖ノ島の航路祭祀に三所祭祀を持ち込み、沖津宮、中津宮、辺津宮の祭祀としたという説があります。
 確かに、6世紀に物部阿遅古連が祭祀したとされる道主貴は、沖ノ島に祀られる田心姫命の一柱。また、田心姫命は出雲大社において大国主の妻神として祀られるなど、三女神の中でも特別な存在です。
 そして、沖ノ島で出土する4世紀後半に始まる祭祀遺物が、中津宮、辺津宮にはみられないといった謎が在ります。

 はたして、三女神の航路祭祀の生成のストーリーとは。

宗像6825

 宗像大社(辺津宮)境内の裏手の森に、田心姫神を祀る第二宮(沖津宮)、湍津姫神を祀る第三宮(中津宮)が鎮座して、厳かな空気が漂っています。

 田心姫神が祀られる沖ノ島(沖津宮)は玄界灘の孤島。九州と韓半島を結ぶ航路の半ば。
 島全体が神域で女人禁制とされ、男性であっても上陸前に海中での禊(みそぎ)を行ないます。住人はなく沖津宮の神職が在島するのみ。一木一草一石たりとも持ち出が禁じられ、島で見聞したことは一切、漏らしてはならないとする掟が今も守られています。

 沖ノ島の20数ヶ所の祭祀遺跡からは、4世紀から10世紀頃の大陸、韓半島製品を含む、銅鏡、金銅製の馬具、三彩陶器、玉類、刀剣、そしてペルシャのガラス椀などが発見され、その大量の遺物は一括して国宝に指定されました。ゆえに、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれます。

宗像6826

 宗像大社(辺津宮)、奥の山中には「高宮斎場」が在ります。ここは、宗像三女神が降臨した地とされる聖域。「木」を神が宿る神籬(ひもろぎ)として太古の祭祀形態をみせます。宗像大社最大のパワースポットとされる神秘的な空間。

 宗像に入った大和の祭祀氏族、大神氏は宇佐にも下向しています。宇佐神宮の生成は、古く、宇佐の国人、宇佐氏の比売神信仰に、渡来系の辛嶋氏がシャーマニズム(原八幡信仰)を持ち込み、さらに、6世紀に大神比義が応神の信仰を同化させたといわれます。そういう意味では、三女神の航路祭祀の生成とよく似ています。宇佐神宮の「比売大神」が宗像三女神とされるのも、このあたりに因るのかも知れません。


宗像大社
主祭神 田心姫神(沖津宮)湍津姫神(中津宮)市杵島姫神(辺津宮)
社格 式内社 名神大 官幣大社 別表神社
宗像大社(辺津宮)
福岡県宗像市田島2331


( *1)「高良玉垂神の秘密。」高良大社と周辺の宮。http://aburabaku.blog.jp/archives/cat_352299.html

神社百景。「日向神武天皇宮、宮崎神宮。」

 宮崎市の中枢に鎮座する旧官幣大社、宮崎神宮。神日本磐余彦尊(神武天皇)を主祭神とし、親神の鵜草葺不合尊と玉依姫命の2柱を配祀します。
 この宮は古く、神武天皇宮、神武天皇御廟などと称され、社伝によると社地は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地であり、のちに、九州に下向した皇孫の建磐龍命(阿蘇神社主祭神)が創祀し、崇神天皇期に社殿を創建したとされます。
 また、景行天皇の熊襲征討に際して、重ねて造営され、応神天皇期からは日向国造の祖、老男命(おいお)が祭祀したと伝えられます。この宮の歴史は殊に神話の世界。

宮崎神宮4008

 宮崎神宮略記は紀元前七年、神日本磐余彦尊が四十五歳にして、諸皇兄皇子と共にこの地を発進し、八十伴緒の群臣を統率して大和に入り、七年目の正月朔日、畝傍の橿原において宮殿を建て、第一代の天皇の御位に即いたと記します。
 現在、多くの歴史学者が神武天皇の実在を認めてはおらず、記紀の神武東征説話も史実ではありえないとします。が、神武東征が何らかの史実を投影したもので、神武天皇に投影された人物の存在までは否定できていません。

宮崎神宮6405

 神武東征において、常に神日本磐余彦尊の側に在って、能く藩屏とされた大久米命の存在があります。大久米命配下は皇軍の主力でした。
 「久米(くめ)」の発祥のひとつとして、肥後国球磨郡久米郷の存在があります。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地。久米はクマとも音され、九州中南の狗人に拘わるともされます。
 神武東征が魏史倭人伝にいう狗奴国(くな)勢力の東征、王権樹立を投影したとする説があります。神武東征神話における久米の存在が、九州中南の狗人と重なることで、狗奴国の大和東征説を補完するともみえます。
 そういえば、この宮崎の地も熊襲の至宝、弥生後期の「免田式土器」の拠点的出土域でした。「天神地祇。|久米氏考。天孫降臨と神武東征の実証」http://aburabaku.blog.jp/archives/20927467.html参照。


宮崎神宮
宮崎県宮崎市神宮
主祭神 神日本磐余彦尊(神武天皇)
旧官幣大社 別表神社

古代妄想。「久米氏考。天孫降臨と神武東征の実証。」

 橿原神宮は畝傍山の麓に広大な神域を広げていた。早朝の参拝であったため朝日が畝傍山の上方を茜色に染めて、神々しい。
 辛酉の歳、神武天皇元年の正月、神日本磐余彦尊は畝傍山の麓、橿原宮にて践祚し、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」を称したという。
 明治に入り、国は橿原宮があったとされる畝傍山の南麓に橿原神宮を興し、それまで桜井の多武峰にて奉斎してきた神武天皇の神霊を移したとされる。天皇の陵墓は北麓の畝傍山東北陵、畝傍山の向こう側に在る。

橿原6089
畝傍山の麓に鎮座する橿原神宮。社地は神武天皇の畝傍橿原宮の地とされる。

 参拝を終えて近鉄橿原神宮前駅へと歩く。駅へ向かう参道の右手は久米町である。古えの大和国高市郡久米邑とされる。神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる「畝傍山以西の川辺の地」である。
 町の中央に久米御県神社が鎮座する。延喜式神名帳に大和国高市郡久米御県神社三座とある式内社。久米氏がその祖神を祀ったとする。北に隣接して久米仙人の説話が残る古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺がその町中に並んでいる。
 神武東征において、常に、神日本磐余彦尊の側に在って、能く藩屏となりし大久米命を想起する。
 が、現在、多くの歴史学者が神武天皇の実在を認めてはいない。記紀の神武東征説話も史実ではありえないとする。

 久米氏は古代日本における軍事氏族。高御魂命の後裔とする氏族と、神魂命の後裔とする氏族があるという。久米氏の祖神とされる天津久米命は大伴氏の祖神の天忍日命とともに武装して、瓊瓊杵尊の降臨を先導したとされる。
 古事記には天津久米命は靫を負ひ、頭椎の太刀を腰に着け、櫨弓(はじゆみ)を手に取り、真鹿児矢(まかこや)を手鋏みに持って天孫の先に立ったと記される。
 そして、神武東征においては大久米命が大伴氏の祖、道臣命とともに活躍、大久米命配下は神武王朝の藩屏として、皇軍の主力であったとされる。そして「撃ちてし止まむ」の久米歌は戦闘歌の代表とされる。殊に、久米氏はこの国の曙における干城というべき存在であった。
 神武天皇の存在や東征神話の真偽は別として、大和王権の創成期において、久米氏が王権の軍事力として貢献したのは間違いのないこと。

 久米氏は隼人系の海人ともいわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団でもあった。

 大久米命は黥利目(入墨目)であったという。魏志倭人伝に倭人は水人であり、黥面文身すると記され、入墨は海人たる倭人の習俗とされた。故に、久米氏は海人系の氏族とされる。
 そして、「久米(くめ)」の発祥のひとつとして、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在がある。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地である。
 久米はクマとも発音されるという。古代においてメとマは同じ音とされる。戦前の歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん。」と述べ、久米は狗人、のちの熊襲に拘わるとする。

 前項「狗奴国の謎。」においては、弥生後期の人吉盆地で熊襲の土器とも呼ばれる免田式土器(重孤文土器)を奉じた特異な集団が、呉の太伯の後を称する江南の民に拘わるともみえていた。
 古く、彼らは列島本来の縄文由来の民と同化、融合し、狗(く)人として九州中南に拡散している。九州中南は縄文遺跡の密集度において卓越しており、また、縄文と弥生文化の共存が極めて長いとされる。

 また、彼らが八代海沿岸から白川、緑川流域を北上した痕跡が、免田式土器の拡散に投影されている。そして、阿蘇を国邑として大量の鉄器を保有し、かつてない軍事力をもって、その領域を菊池川流域にまでに広げ、狗奴国を建国させるというストーリーが浮かび上がっていた(*1)。軍事の族、久米(狗人)の存在とこの集団が重なる。

 阿蘇に山部氏族の存在がある。阿蘇の山部氏族は阿蘇神社を中枢とする阿蘇山の祭祀を司る氏族であった。「山部」は部民制からきた職掌名だが、それが特定の族を示すともみえる状況があった。

 姓氏家系大辞典は「山部は太古の大族であり、記紀の大山祇神がその長の意、皇室の外戚たる隼人同族。」とする。即ち、隼人の祖が彦火火出見尊の兄、火闌降命であり、その兄弟の母が大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売であった。また、山幸海幸の神話が山猟と漁労の隼人や大山祇神の二面性で、山部と海部に投影されたとする。
 また、新撰姓氏録は山部を隼人同族の久米氏族の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であったとする。魂志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとする。

 阿蘇の山部は久米氏同族であり、隼人にも纏わる氏族として、古く、九州中南域に在った狗人に由来するとみえる。そして、その山部氏族が鯰をトーテムとすることで、前述の列島本来の縄文の民と融合した、呉の太伯の後を称する江南の民に拘わるともみえていた。(*1)

kuruma-a
九州中南の神祇の中枢、阿蘇の考古は特徴的であった。弥生後期後半の阿蘇は、鉄器を出土する集落が最も密集する域であった。当時の先進、九州北部に対抗しうる勢力は、同時代の列島において阿蘇の域しかないとされる。


 阿蘇神話において、阿蘇の山部氏族は神武天皇の長子、日子八井命(草部吉見神)を祖神としている。
 前項「狗奴国の謎。」においては、魏志倭人伝にいう狗奴国が、阿蘇を国邑として、その領域を免田式土器の分布域、菊池川流域以南、八代海沿岸、球磨、人吉盆地、そして北薩摩域、日向南半として、筑後川流域をも蹂躙していたという事象がみえていた。また、草部吉見神社縁起は、阿蘇の故神、草部吉見神が筑紫を鎮護していたとする。(*2)

 これらの事象や伝承が、神日本磐余彦尊と狗奴国の存在を重ね、阿蘇の山部氏族が、神日本磐余彦尊の側(そば)に在って藩屏となりし、大久米命の流れとされることで、神武東征が九州中南の狗奴国勢力の東征、王権樹立を投影したものとする説を補完するとも思わせる。「翰苑」などに、倭人は呉の祖、太伯の後裔であるとされる由縁であろうか。
 旧唐書には、日本は倭国の別種であると記載され、もともと小国であった日本が倭国を併合したと記される。新唐書でも、日本は古くから交流のあった倭国とは別と捉えられ、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったなどの記述がある。

 弥生末期において、列島最大の鉄生産を誇る阿蘇あたりの鉄鏃は、北部九州のそれに比べて大型である。天久米命が装備したとされる、強大な霊力を潜ませた櫨弓(はじゆみ)と真鹿児矢(まかこや)の鏃として、いかにも相応しい。(了)

DSC02967
鹿児島湾に浮かぶ桜島。「桜島」の名は大山祇神の女(むすめ)、木花咲耶姫命(神阿多都比売、鹿葦津姫)に由来するともされる。


(追補)
 久米が球磨(肥、くま)ともされることで、球磨において免田式土器(重孤文土器)を奉じた呉の太伯の後を称する江南の渡来人に拘わる民ともみえていた。
 が、沖縄諸島の西端に久米島が在る。この島は水が豊富であり、古くから稲作が行われた島であった。久米は黒潮にのって南西諸島を伝い、南九州に上陸した族ともみえる。
 そして、久米が拘わる山幸海幸の逸話などが、インドネシアの神話をルーツとし、のちの隼人の楯などの渦巻紋や鋸歯紋の類が、東南アジアにおいて悪敵を払う呪術として見られることで、隼人に纏わる久米が、極南界の海人であったとも思わせる。
 神話においては隼人の祖が火闌降命であり、その母が大山祇神の女(むすめ)、そして、久米の流れとされる山部は、大山祇神に纏わるという。

 また、綿津見神、豊玉彦、豊玉姫父娘の系譜に投影された海人、鹿トーテムの民、大陸南岸の越人の痕跡も南九州に濃い。
 薩摩国一宮、枚聞神社の大宮姫は鹿から生まれたとされ、足にひづめがあったという。薩摩の西方に浮かぶ甑島に残る鹿の子百合は、九州西岸から日本海を遡り、越(こし)の村邑に広がる。それは、越の海人が愛した鹿子の模様を持つ百合であった。鹿児島とは鹿子の島。鹿屋に鹿ノ子、彼の地は殊に鹿だらけ。(*3)

 南九州に上陸した海人は多岐にわたり、また、この地が列島本来の縄文の民が繁栄した域であったことで、その共存は複雑な様相を呈している。
 それらが、天孫が婚姻をもって国つの民(大山祇神や綿津見神の系譜)と融合してゆく神話に投影されたものであれば、瓊瓊杵尊の南九州への降臨(上陸)も史実であったのかもしれない。

 日向神話の意義として、記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として山幸海幸の逸話が着想され、隼人の住地である南九州を天孫の降臨の地とする必要があったと述べられる。が、国家生成の大叙事詩が、そのような姑息な意図で構想されたものとは思えない。


「古代妄想」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen参照。
(*1)「阿蘇祖神、草部吉見神の考証。」
(*2)「狗奴国の謎。」
(*3)「越の海人。」

神社百景。「可愛山陵と薩摩新田神社。」

 鹿児島県薩摩川内市街の中央、比高60mほどの独立丘陵、神亀山上に邇邇杵尊の神蹟と共に、薩摩国一宮「新田神社」が鎮座します。祭神は邇邇杵尊、天照皇大御神、天忍穂耳尊。
 社伝によると、邇邇杵尊は降臨ののち、笠沙の地で大山祇神の女(むすめ)木花咲耶姫を娶り、北上して川内川河口に至り、川を溯って神亀山麓に都したとされます。
川内6459
長い石段を登ると山上に勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が直線上に並びます。

 境内末社として天孫降臨に随伴した五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱を祀る「二十四社」、降臨の道案内をしたとされる猿田彦命を祀る「興玉神社(太玉社)」、そして、天鈿女命の「高良神社(猴等神社)」、神亀山の地主神とされる大山祇神の「中央神社(中王社)」などが鎮座します。
 境外末社として、往古は薩摩総社であったとされる大己貴神の「大己貴神社(汰宮)」、甕速日神を祀る「九樓神社(くろう)」、樋速日神を祀る「守公神社」、八岐大蛇を祀る「八尾神社」と八咫鏡を祀る「鏡山神社」。随伴神、十郎大夫を祀る「船間島神社(海神宮)」などが鎮座します。
 神代の神々や、特異な古神を祀る多くの末社群は興味深いものがあります。殊にこの地は神話の国。


 山上の社殿群の後方には、邇邇杵尊の神陵とされる「可愛山陵(えのやまのみささぎ)」が鎮まります。日本書紀に「筑紫日向可愛山之山陵」と記される可愛山陵は、彦火火出見尊の高屋山上陵(霧島市溝辺町)、鵜草葺不合尊の吾平山上陵(鹿屋市吾平町)とともに神代三山陵の一つとされます。明治政府により明治7年に治定されました。

川内6454
邇邇杵尊の神陵は2段の基壇の上、玉垣に囲まれています。墳丘等は不明。一説には神陵は社殿の下に在るとも。老木が繁茂する森の中に、厳粛な空気が漂っています。

 神亀山は全体が亀のかたちをしており、その突出した頭の部分には邇邇杵尊の妃、木花咲耶姫の陵墓とされる「端の陵(はしのみささぎ)」が在ります。小祠が鎮座する小丘陵の上部は全長54mの出現期の前方後円墳ともされ、後円部に竪穴式石槨が一部が露出しています。が、隼人のものともされる地下式板石石室にも類似して興味深い墳墓です。
 亀の首の部分には御子の火闌降命の陵墓とされる「中の陵(なかのみささぎ)」が在り、ここも小祠付近から石槨が出土したとされます。神亀山は全山、真に興味深い神蹟です。川内6461
「聖蹟図誌」嘉永7年(1854)。川内川の岸辺から参道が真北に延び、300段以上の石段が山上の神蹟、社殿群まで続く。1km近い桜並木の参道が壮観。

神社百景。「肥前、杵島の稲佐神社。」

稲佐6352

 肥前、杵島の地主神として「稲佐(いなさ)神社」が鎮座する。国史見在社(六国史記載社)とされる古社である。創祀年代は不詳であるが、社伝によると天地開闢の頃に「五十猛神(いそたける)」を稲佐明神として祀ったという。
 この地は古く、住之江とも呼ばれる有明海の最奥の海辺であった。杵島山は古くは島であったとされ、杵島(きしま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
 社地は杵島山より突出した岬の突端、稲佐山の中腹の台。楼門からは有明海が眼前に広がる。
 北方の岬には五十猛神の妹神、抓津姫命(つまつひめ)を祀る「妻山神社」が鎮座する。社領から弥生中期の甕棺墓群が出土している。このあたりが拠点的な甕棺墓域の南西端。太古のこの地の繁栄を物語る。
 そして、麓の八艘帆ヶ崎(はっすぽ)には、五十猛神の上陸伝説が残る。神代、五十猛神は抓津姫命らとともに、韓地よりここ焼天神に着岸し、杵島全山に播種したと伝わる。


稲佐6355

稲佐神社の石敷きの長い参道。この社には複雑な歴史が重なっている。飛鳥期には百済より阿佐太子が来朝、この地に留まって両親の聖明王と王妃を相殿に合祀し、のちには阿佐太子も祀られたという。また、平安期の神仏習合において、空海はこの地に稲佐泰平寺を開き、真言寺十六坊と呼ばれる一大霊所とした。参道の脇には、今も寺坊が残る。

妻山6330
五十猛神の妹神、抓津姫命(つまつひめ)を祀る妻山神社。社地は中世の妻山城址でもある。妻山城は当地の地頭職、白石氏の築城。が、白石氏は南北朝期の争乱に巻き込まれ逼塞する。長い参道は馬場でもあり、今も流鏑馬が行われる。


 肥前、杵島では素戔嗚尊の子神、五十猛神はこの岬に上陸した「稲佐(いなさ)神」とされた。
 出雲では高天原より派遣された建御雷神と天鳥船神が上陸した浜が「稲佐(伊那佐、いなさ)の小濱」であった。そして国譲り神話の舞台ともされる。

 不思議な符合がある。国譲り神話の建御雷神は常陸国一宮、鹿島神宮に祀られるが、杵島の拠点域も「鹿島」とされる鹿の拘わりがある。
 建御雷神を祀る鹿島神宮や春日大社では「鹿」を神使とする。鹿をトーテムとする民とは阿曇氏をはじめとする、日本海沿岸に「越」の故名を残した江南の越人(干越)に由来する海人ともされる。
 八幡愚童訓は「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」として、博多湾口の志賀(鹿)島に祀られる阿曇氏の祖神、磯武良(いそたけら)と建御雷神を同神であるとする。
 そして、磯武良(いそたけら)が「五十猛神(いそたける)」と音を同じくして、同神ともされる。阿曇氏の拠、博多津の氏神、櫛田神社の大幡主神も佐渡や越後では当に五十猛神と重なっている。

 五十猛神は稲佐(伊那佐、いなさ)や、鹿トーテムの民を通じて国譲り神話の建御雷神と重なっている。



筑紫i0083
五十猛神を筑紫の国魂として祀る筑紫神社。


 国譲り神話において、建御雷神は「建御名方神」を諏訪に追いつめる。伝承では建御名方神が諏訪の湖まで逃れた折、大鯰が現れて建御名方神を背に乗せて対岸まで渡したとする。故に「鯰」は建御名方神の眷属とされる。
 阿蘇の主神、健磐龍命が別名、武五百建命であり、科野国造ともされる阿蘇と諏訪の拘わりがあった。
 阿蘇の古い民が「狗人」とされ、鯰をトーテムとする。そして、健磐龍命よりも先に阿蘇に下向した「草部吉見命」の後裔氏族とされる。諏訪大社上社大祝の系譜は、その草部吉見命(会知速男命)を「建御名方神」の後とする。

 また、阿蘇の古い民が奉祭する「蒲池媛」が、有明海沿岸の「與止日女(よどひめ)」などに習合して、これら鯰をトーテムとする比売神信仰の広がりは、中南九州の狗人が有明海沿岸から九州北部域へと領域を拡げた痕跡ともされる。


 五十猛神は筑紫の国魂として筑紫神社に祀られる。この社の後背に「基山」が聳え、古く、山上には五十猛神が在ったとされる。基山(きやま)も五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名。

 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢、須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、糸島や博多湾岸から、筑後や吉野ヶ里などの佐賀平野にまで分布する。
 甕棺墓は韓半島南域にも存在する。そして、甕棺墓域での朝鮮系無文土器の大量出土などは、甕棺墓域の民と韓半島南域との繋がりを示す。
 そして、九州北部域の拠点的な甕棺墓域には、必ずといっていいほど「五十猛神」が祀られている。糸島の白木神社群、早良の飯盛山、基山や杵島山など。九州北部域においては五十猛神祭祀域と甕棺墓域がみごとに一致して、伝承と考古の実体が重なっている。


 前述の基山の五十猛神は、南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承(つぶてうち)」を残し、それは戦さの記憶とされる。
 高良山に進駐し、五十猛神とせめぎあったのは「狗人」の神であった。基山の礫打伝承とは、五十猛神を奉祭する韓半島の由来の勢力と、高良に在った狗人との戦さの記憶。
 そして、基山と高良山に挟まれた小郡のあたりは「隈」地名が集中する域であった。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名とみえ、それを施したのは韓半島の支配氏族とされる。
 ここに、弥生中、後期、筑紫平野まで北上した狗人の勢力が、韓半島由来の民に駆逐された事象が浮かび上がる。異族征服譚の類型。(*3)
 国譲り神話の建御名方神と建御雷神の逸話は、「鯰」をトーテムとする建御名方神を、「鹿」を神使とする建御雷神が屠るという構図。
 さすれば、国譲り神話が狗人と韓半島に拘わる勢力との覇権抗争を投影している可能性がある。国譲りの説話は、日本書紀には記載されていない。

 そういえば、大国主命は出雲の本殿の脇に筑紫社(つくしのやしろ)を鎮座させて、狗人の媛神を娶り、自身の領域を九州中南の狗人域にまで広げたとみえていた。(*4)

 神話は政治的意図を持って創作されたものとされる。しかし、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、何らかの史実を投影して創作されたことも事実であろう。
 建御雷神を祀る常陸一宮の鹿島神宮において、大鯰を封じる「要石」の存在がある。建御雷神(五十猛神)はいまだに建御名方神の神霊を封じているということであろうか。(了)



(追補)
 五十猛神は素戔嗚尊の子神。素戔嗚尊とともに新羅、曽尸茂梨に天降り、のち、共に列島に渡っている。
 建御名方神の父神とされる大国主神も素戔嗚尊の子神とも、六世の孫ともされる。五十猛神と大国主神は古く、同祖であった。
 弥生の早い時代に、大陸南岸の諸族「百越」の渡来があったとされる。その種は多く、故に百越と呼ばれる。句呉、干越もその一とも。稲作、断髪、鯨面など倭人と類似して、「百越の倭人」の名称がある。そして、その時代、韓半島南岸の民も同じ種とされる。


「古代妄想」http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen参照。
(*1)「安曇と五十猛神。(続、筑紫の五十猛神。) 」
(*2)「宗像の鯰。」
(*3)「高良の神々の秘密。」
(*4)「出雲と狗人。出雲大社の神祇。」




古代妄想。「前方後円墳の秘密」

 橿原市の県立考古学研究所の博物館を訪れた。驚いたのは復元された巨大な円筒埴輪群。4世紀の前期古墳とされるメスリ山古墳より出土した大型円筒埴輪は、高さがなんと2.4m、その巨大さに唖然とする。
 大和盆地は国家発祥の地。かつての為政者は巨大な墳墓を築いて自身の威厳を保とうとした。前方後円墳の政治的な思惑。そして、その上には巨大な円筒埴輪を林立させて、見る者を圧倒した。
 前日に訪問した桜井市の埋蔵文化財センターでも、展示室の入口に巨大な土器壺が置かれていた。殊に、巨大化が大和盆地の感性であろうか。

 巻向6030
箸墓、後方は三輪山。
 
 奈良県桜井市の纏向は大和盆地の神奈備、三輪山の北西麓の小さな扇状地の末端。国の曙の地とは草花が咲き乱れる穏やかな里であった。
 このところ、メディアなどでは纏向遺跡にスポットが当てられている。ここで出土した3世紀の大型建物跡は、卑弥呼の居館とされ、大型水路や祭祀に関する遺物なども検出され、纏向は邪馬台国の有力候補地とされた。
 初期大和王権の発祥であろう纏向遺跡を、ぜひ、拝んでおかねばならぬという強い思いがあった。もとより、ここは王権の墓制、前方後円墳の発祥の地であった。箸墓をはじめとする出現期の前方後円墳群の存在に以前より強く惹かれていた。

 纏向遺跡の南に箸墓が在る。全長278m、最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型前方後円墳である。日本最初の巨大墳墓ということ。宮内庁は箸墓を倭迹迹日百襲媛命の墳墓として管理している。が、この古墳を魏志倭人伝が伝える卑弥呼の墓とする説は根強い。
 日本書紀の三輪山説話によると、倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神の妻となるが、大物主神の本体が蛇であることを知り、驚いて倒れこみ、箸で陰(ほと)撞いて死ぬ。箸墓は彼女の墓とされ、昼は人が造り、夜は神が造ったという。この伝承は、なんらかの史実を比喩したものであろうか。

 そして、箸墓以前のものとされる纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳、ホケノ山古墳など纒向遺跡内に点在する古墳は出現期古墳とされ、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。墳丘規模90~100mで、後円部に比べ前方部が著しく小さく低平で撥(ばち)形に開いている。
 纒向型前方後円墳おいて、後円部が埋葬のための墳丘で、小さな前方部は出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓など、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、祭壇や墓道であったと考えられている。
 また、埴輪の原型とされる特殊器台、特殊壺の存在や、弧帯文様(纒向石塚古墳出土の弧文円板)など、吉備との祭祀儀礼の共通がみられ、前方後円墳の成立過程での吉備との繋がりを示すとされる。
 故に、初期王権の権力母体は、弥生期の大和、畿内の勢力を基盤にしたものではなく、吉備など西日本域の国家連合によるものであるともされる。(wikipedia)

 前方後円墳の起源について壺形説の存在がある。確かに、纒向型前方後円墳は円丘が高く、前方部が小さく低平なため「壺」の形に似ている。また、「壺」の形は子宮や母胎の観念をもつとされる。そして、古代中国の神仙思想においては、仙境、蓬莱山のイメージが壺形であった。

 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢とされる須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、福岡平野から吉野ヶ里などの佐賀平野に分布する。
 甕棺墓とは甕や壺を棺として埋葬するもの。蓋や2個の甕を開口部で合わせた合口甕棺などの接合部は粘土などで密閉される。
 そして、甕棺内部で遺体は屈葬にされる。縄文期の埋葬が屈葬であった。これは死者が蘇るのを恐れたためといわれる。また、屈葬は子宮の中の胎児の姿でもあり、子宮への回帰と生命更新を祈る意味があったともされる。もとより、甕棺自体が子宮や母胎の観念であった。甕棺墓の思想背景。
 ホケノ山古墳の墓拡に何故か大型の壺が供献されていた。半分ほど土に埋まった大壺は、殊に前方後円墳の姿であった。

巻向6037
纏向石塚古墳の平面図、殊に土器壺の姿。

巻向6054
ホケノ山古墳の墓拡の大型壺。

 そして、九州北部域で盛行した甕棺墓は弥生末期には消滅する。それに連鎖するように弥生末期、3世紀の大和盆地に甕壺の形をした前方後円墳が出現するのである。巨大化が大和盆地の感性ともみえていた。
 銅鏡の大量副葬、そして鏡と剣、玉の三神器を副葬する習俗が、大和盆地を中心に古墳期の支配者層の習俗として一般化する。が、それらは、奴国王墓とされる須玖岡本遺跡や、伊都国の三雲南小路の王墓、平原王墓など、弥生期の甕棺墓域の神祇であり、弥生期の畿内には無かった習俗。逆に畿内の神祇、銅鐸は3世紀に突然、消滅している。
 初期の王権が吉備など西日本各域の連合による政権であったとすれば、その中枢は九州北部の甕棺墓域の勢力ではなかったか。

 また、出現期古墳とされる纒向遺跡内の纒向勝山古墳、東田大塚古墳、そしてホケノ山古墳、箸墓は、葺石に覆われていたことが確認されている。
 弥生前、中期の甕棺墓において、王墓など有力者の甕棺墓の地表面には標石と呼ばれる大石が設置されていた。奴国王墓とされる須玖岡本の甕棺墓も、巨大な上石と枕石と呼ばれる二つの大石を組み合わせて標石としている。
 また、熊本の新南部遺跡群では、弥生中期の甕棺墓の地表面を無数の礫石で覆う標石が検出されている。甕棺墓域の為政者は自身の墳墓を石造りとした。
 前方後円墳の葺石も墳墓を石造りとしたもの。出現期古墳の葺石とは甕棺墓の標石の延長ともみえる。

黒崎 一宮神社4259
八幡、王子本宮の礫石で覆われた円形と方形の磐境。考古学的にも貴重なものとされる。

 そして、前方後円墳はそのかたちを変化させてゆく。前方部を巨大化させ、撥(ばち)形の開きを直線化させるのである。
 北九州市八幡西区、一宮神社の王子本宮には、神武天皇が東遷の折、天神、地祇を祀ったとされる磐境(いわさか)が残されている。人頭ほどの礫石を敷きつめた古代祭祀の磐座で、神域をしめす柵の中、円形の天神と方形の地祇のふたつの磐座が祀られている。
 前方後円墳の定型化に際して、古代中国の「天円地方説」の存在が指摘される。天円地方とは古代中国の宇宙観。天は円形、地は方形であるとされ、円丘で天神を祀り、方丘で地祇を祀ったとする。故に、天を祀る「天壇」などは円形の構造物とされる。王子本宮の磐境とは、殊に天円地方の神祇。

 古代、晋の武帝(265年即位)の時に、円丘と方丘を合わせた壇を造り、冬至の祭祀儀礼が行なわれたという。魏志倭人伝にいう邪馬台国の使者が派遣された年のこと。
 縄文以来の子宮や母胎の観念を具現した壺形の墳墓は、新しい思想を得て、かたちを斉えてゆく。前方後円墳において、前方部が巨大化する由縁であろうか。(了)



「高良玉垂神の秘密。」高良大社と周辺の宮。

 筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座する高良大社(高良玉垂宮)は、古く、筑紫の国魂と仰がれ、筑後域はもとより、有明海沿岸や筑前にまでその信仰域を広げる。
 仁徳天皇55年(368年)の鎮座ともされるが、山内の出土遺物は太古の時代にまで遡り、その信仰の古さをみせる。御井の地名由来の山麓井泉群や奥宮の霊水、馬蹄石などの磐座群に太古の自然信仰の痕跡をみせ、神籠石の名称由来ともなった神域の列石の謎は、歴史のロマンを誘う。古田武彦の「九州王朝説」ではこの域に王朝があったともする。
 中世の神仏習合期以降は山岳密教の霊山として栄え、のちには天台の一千僧徒が奉仕し、山内には二十六寺三百六十坊を数えたという。

高良6162
高良大社(高良玉垂宮) 福岡県久留米市御井町
祭神 高良玉垂命、八幡大神、住吉大神 合祀 豊比咩大神
式内社(名神大)筑後国一宮 九州総社 鎮西宗廟


 高良山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端。景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれた。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となり、後には南朝、懐良親王が征西府を置き、秀吉の九州征伐では本陣とされた。この山は常に九州の軍事の要衝であった。
 社地より俯瞰すれば、足許には広大な筑紫平野が広がり、筑後川が蛇行しながら滔々と流れている。陽光を反射するその姿は一匹の巨大な龍。
 この平野を北上すれば太宰府を経て博多。南下すれば筑後から肥後国境へ。筑後川の上流は日田盆地を経て豊後へ。下流域には佐賀平野が広がっている。殊に九州の扇の要(かなめ)。筑紫、肥(火)、豊の国々を扼している。

高良6160

 この社の祭神論争は有名である。祭神の高良玉垂命には、武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神、高麗神説など多くの説がある。
 明治期までは武内宿禰説が主流であったという。山頂域の奥宮が高良廟と称して武内宿禰の墓所とされ、また、筑前域の分霊社など、多くの高良社が武内宿禰を祭神としている。が、それは江戸期に有馬藩が祭神を武内宿禰に特定したためともされる。
 高良玉垂命は記紀に出てこない「隠された神」。朝廷から正一位を授かった神なのに正体が判らない。

 久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は、高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったとされる。また、この社は三瀦の総社にて、高良玉垂宮の元宮ともされる。
 この玉垂命に関して、筑後国神名帳には「玉垂媛神」の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるともされる。
 禊(みそぎ)の介添えの巫女が「水沼(みぬま)」であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄であった。そして水沼が三瀦(みずま)に変化している。

 筑後の名族とされる蒲池氏において、祖蒲池と呼ばれる古族が、阿蘇の「蒲池比咩(かまち)」を祖とするという。そしてこの氏族が水沼氏族と重なる。
 阿蘇の蒲池比咩とは、阿蘇祖族の草部吉見氏族が奉祭する阿蘇の母神とよばれる女神。阿蘇神社の元宮ともされる阿蘇北宮、国造神社に祀られる。この草部吉見氏族は「狗呉(くご)」の族ともされ、のちに日下部氏を称する。
 日下部氏族には多くの系譜があるが、日向、阿蘇、日田など九州の古い日下部氏族は、中南九州の狗人に纏わるとみえていた。「新撰姓氏録」は、日下部を阿多御手犬養同祖、火闌降命之後也ともする。阿多とは隼人の中枢。
 中南九州においてはこの国の正統、列島本来の縄文の民は、江南より渡来した「句呉(くご、こうご)」の系譜などと同化、狗人ともされる「狗呉」の族。のちに半島由来の為政者に忌避され、熊襲ともされた。

 そして、水沼氏がのちに「日下部氏」を称している。水沼氏族と阿蘇の日下部祖族との拘わり。高良玉垂宮の神職に、高良神の裔を称する「日下部氏(草壁、稲員)」がある。そして、高良山、前衛を吉見の峰と呼ぶことで蒲池比咩の斎(いつき)、阿蘇の草部吉見の存在を伺わせる。
 この域では、古く、氏族の移動などに伴う同化、統合が行われるなか、阿蘇の日下部祖族など中南九州の狗人の比咩神信仰、阿蘇の「蒲池比咩の神祇」が持ち込まれた形跡。
 大善寺玉垂宮の神事「鬼夜」は壮大な火祭り。阿蘇神社の火振り神事とともに九州を代表する「火」の祭祀。殊に「火」の氏族の神事に相応しい。また、玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。火(肥)の伝承において、古く、蒲池比咩が潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る八代海の海神でもあった。
(*1)

高良6155
山麓の旧参道二之鳥居。傍に「高樹(たかき)神社」が鎮座する。


 高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。
 高木神の信仰に由来して「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。鷹とは高木神の「たか」に由来し、高上ゆえに天空高く在って疎薄、そして猛禽ともされた神の異名。鷹巣や鷹取、鷹群など「鷹」地名を散在させる神祇が九州北半域に広がっている。
 山麓の二之鳥居の脇に「高樹(たかき)神社」が鎮座し、地主神として高木神が祀られている。この社の縁起では、高木神はもとは山上に在ったが、玉垂神に山を貸したところ、結界を張って鎮座されため山上に戻れず、麓に鎮座しているという。

 この域には「高木氏族」の存在がある。この高木氏族は御井、北野、大城あたりを本地とし、のちに肥前の大族ともなる。この氏族は高木神に由来するとされ、その領域は北部九州の高木神祭祀域と重なる。
 そして、大善寺玉垂宮周辺にこの高木氏族が濃密に在り、水沼氏に由来する日下部氏族に拘わったとみられる。
 のちの高木氏族が「日」の神祇、日章の「日足紋」を家紋とし、同族の草野氏(くさの)が日下部(くさかべ)の名義に纏わるとされる理由(わけ)。そして、高木氏族が肥前一宮で奉祭する地神「與止日女(よどひめ)」は鯰を眷属とするなど、阿蘇の蒲池比咩が習合していた。この域において日下部氏族と高木神氏族との拘わりは深い。

玉垂宮3424
大善寺玉垂宮
福岡県久留米市大善寺町
祭神 玉垂命、八幡大神、住吉大神 三瀦総社
大善寺玉垂宮は高良玉垂宮の元宮ともされる。玉垂命はこの宮から高木神が在った高良山に遷ったものか。大善寺玉垂宮周辺には高木氏族が密集している。この項で記した高木氏族と日下部氏族の繋がりは、肥前出自の高木氏族の方に教えて頂いた。古代氏族の息遣いは連綿と今も続いている。


 九州北部域の神奈備、英彦山にも、高良山と同じ高木神伝承がある。英彦山の本来の祭神は高木神であり、山頂域が高木神祭祀の旧地であったとされる。英彦山神領の48の大行事社群は高木神を祀っていた。
 が、英彦山では高木神が自身の領域を譲った相手は「天忍穂耳命」であった。記紀神話での高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と天忍穂耳命の婚姻に由来し、英彦山は日の御子の山「日子山(ひこさん)」とされた。

 阿蘇の祖族の神祇は、阿蘇の火口に御幣を投げ入れて噴火を鎮める「火」の祭祀であった。が、その氏族はのちに日下部とされる。日下部とは日下(くさか)の職務を行う集団。日下の字を宛てられた「くさか」の職とは「日」に纏わる祭祀。阿蘇では「日」の祭祀氏族が「火」の祭祀を行っていた。
 漢字が持ち込まれる以前は、音がすべてであった。古く、列島の民は文字を持たなかった。太古、太陽である「ヒ」も、火炎である「ヒ」も、明るく、暖かいという意味にて同義ではなかったか。

 神話では「日」の神、天照大神の御子、天忍穂耳命は、高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と結ばれる。逸話は天忍穂耳命に纏わる天孫氏族が、高木神由来の民を婚姻をもって帰属させたという事象。
 それは「日」と「鷹」の神祇の交わり。高良域での「ヒ」の祭祀氏族、阿蘇の日下部祖族と高木神氏族との交わりが同じ構造。高良域での事象が、記紀神話に投影されたものかもしれない。

 高良域の「日」と「鷹」の神祇は、英彦山のみならず遠賀川流域、香春、日田あたりへも移植されている。
 遠賀川流域から香春二岳や添田の岩石山、そして英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られ、その域には「鷹」の神祇が重なる。
 そして、「日」と「鷹」の神祇に由来する氏族は、高良域やそれらの域に展開し、記紀神話における天孫の王権成立に際して、重要な役割を果たしている。

 高良域に痕跡の濃い物部氏族は、天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命の子神、饒速日命を祖とする。物部氏は高良大社において、大祝など重要な神職をつとめ、筑後域には物部氏族に拘わる社は多い。また、遠賀川流域でも物部氏族は兵伎の氏族として濃い痕跡を残している。
 高木神の裔とされる大伴、久米氏の祖神、天忍日命と天久米命は天忍穂耳命の御子、邇邇芸命の降臨を先導する。また、神武東征においては天忍日命の裔、道臣命が神武天皇に随伴し、久米氏と共に宮廷の軍事に携さわる。そして、高良山の所在、久留米は久米の転化ともされる。
 日田(ひた)においてはその地名由来も「日」と「鷹」の神祇、旭日と大鷹の神話による「日高」地名。古く高良域の東、日の出の地「日高見国」であったとする説。そして、のちの日田の日下部、靱部は天皇を守護する軍団であった。(*2)

高良6146
高良域の国史跡、安国寺遺跡。祭祀遺構からは100個に及ぶ鮮やかな丹彩土器が検出された。高良山麓には九州最古の古墳の一ともされる方墳、祇園山古墳の存在もある。弥生終末期の形式をもち、墳丘外周からは甕棺墓も検出されている。


 高良山下に安国寺遺跡が在る。遺構は弥生中、後期の111基の甕棺墓と17ヵ所の祭祀遺構。
 弥生期の九州北部域にみられる甕棺墓は、弥生前期に派生、中期には奴国の中枢とされる須玖岡本あたりで爆発的な最盛期を迎え、糸島や博多湾岸から吉野ヶ里などの佐賀平野に分布した。この安国寺遺跡あたりが、拠点的な甕棺墓域の南端であろう。
 甕棺墓は韓半島南域に存在し、甕棺墓域での朝鮮系無文土器の出土などから韓半島南域との繋がりを想起させる。

 高良山の北には筑紫平野が広がり、その向こうには基山が高良山と対峙するように聳える。基山には「五十猛神」が祀られ、基山(きやま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
 五十猛神も「筑紫の国魂」と呼ばれる。また、白日別神として基山山下の「筑紫神社」に祀られる。神話では、五十猛神は素戔嗚神の子神。素戔嗚神とともに新羅の曽尸茂梨に降臨、のちに列島に渡ったとされる。
 九州北部域の拠点的な甕棺墓域には必ずといっていいほどこの五十猛神が祀られている。糸島の白木神社群、早良の神奈備、飯盛山。そして、基山、西肥前の神奈備、杵島山など。九州北部域においては神話や伝承と考古の実体が重なっている。

 そして、基山の五十猛神は南に向かい合う高良山の神と石を投げ合ったとする「礫打伝承(つぶてうち)」を残す。高良の神が投げた石は基山山麓の荒穂神社の境内に残り、五十猛神が投げた石は高良大社の床下に在るという。この伝承は戦さの記憶とされる。
 高良山と基山に挟まれた小郡のあたりは「隈」の地名が無数に集中する神祇。平野部の神奈備は山隈山、隈の山とされる。古層の「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた名。そして、それを施したのは韓半島の支配氏族。弥生中、後期の頃、筑紫平野まで北上した狗人の勢力が、韓半島由来の勢力に駆逐された事象が浮かび上がっている。(*3)

 高木神の「鷹」と狗人の「日(火)」の神祇に、韓半島由来の為政者によって「隈」とされた神々の姿が重なって、殊に、九州北半域の三層構造。
 高良玉垂命や蒲池比咩が忌避されて「隠された神」とされた理由(わけ)もこのあたりにあるのかもしれない。
 記紀神話における、素戔嗚尊に由来する天照大神の「岩戸隠れ」の意味や、葦原中国を統治するために降臨する天孫が、「日」の御子の天忍穂耳命ではなく、邇邇芸命とされた理由(わけ)もこのあたりか。

山隈3727
筑紫平野の中央に聳える神奈備、山隈山(花立山)。「隈」の山とされ、周辺には「隈」地名が集中する。
大善寺玉垂宮の大祝が「隈(くま)氏」である。高良玉垂宮の神職にも「神代氏(くましろ)」があり、武内宿禰の裔を称し、宿禰の神の如き働きを表して、神功皇后が授けた名とする。「くましろ」とは隈(くま)に纏わり、武内宿禰自身が狗人の氏族であったのかもしれない。宿禰は九州において、狗人ともされる黒い神として伝承され、忌避されている。(*4)


 のちの時代、筑後域に在って水沼氏族は異色であった。日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述がある。「新撰姓氏録」は身狭村主青を「呉」の孫権の裔とする。
 三潴は東シナ海の大陸航路の拠点であった。江南への航路は、確かに博多湾、那ノ津よりも有明海のほうが有効であろう。古い時代、有明海は三潴のあたりまで湾入していた。

 日本書紀に「宗像三女神は水沼君が祀る神である。」と記される。三女神は航海神。水沼氏族は江南への航路祭祀を行っていた。江南の「句呉」の系譜こそ、その出自に相応しい。
 水沼氏の巫女信仰ともされた古い比咩神の神祇は、5世紀の頃には大陸航路の女神祭祀へと変質している。高良山の対岸、北野の赤司では蒲池比咩が水沼氏によって「道主貴(ちぬしのむち)」として、三女神の田心姫命に習合していた。

 大善寺の御塚、権現塚は水沼氏族の奥津城。特異な様式をもち、5世紀後半から6世紀初めの築造とされる。八女の筑紫君、磐井の岩戸山古墳にも劣らぬ巨大古墳。
 また、水沼氏は筑紫のみならず火(肥)や豊をも制圧したとされる磐井に隣接しながらも、磐井の乱(527年)を経て、その勢力を律令期にまで存続させている。水沼氏族は祭祀氏族として古代最大の戦乱をその中枢で生き延びている。水沼氏族の特殊性。
 「旧事本記」は水沼氏の祖を物部阿遅古連とする。が、物部阿遅古連は磐井と戦った大連、物部麁鹿火の弟であり、時代が合わない。が、その記述は磐井の乱に拘わった水沼氏と物部氏の密接な関係を想起させる。
 そして、水沼氏族の航路祭祀は物部阿遅古連によって玄界灘沿岸、宗像へと持ち込まれ、「宗像」を冠した三女神は韓半島航路の国家神として祭祀される。磐井の乱の後、筑紫の統治を司る物部麁鹿火は、弟の物部阿遅古連をして韓半島との航路を掌握させ、「道主貴」とされた航路神を祀らせたとする。


 一方、筑後域に在って隆盛を誇る水沼氏族は、筑後域の守護神としての景行天皇祭祀を主体とする。古く、景行天皇は九州巡行の折、高良山に行宮を置き、筑後国を開拓したとされる。
 水沼氏族は景行天皇の一族を称し、氏神とされた景行天皇の神霊を神体山、高良山に祭祀する。天皇の名が大足彦、神名が玉垂神。「足」と「垂」が「たらし」にて同義であるとする説。
 日本書紀では、景行天皇の妃である「襲の武媛」が生んだ、国乳別(くにちわけ)皇子を水沼君の祖とする。襲の武媛とは熊襲の女(むすめ)であるとされる。熊襲の女と蒲池比咩の伝承が重なる。太古の蒲池比咩の記憶が「襲の武媛」として蘇ったものか。

大城豊比咩神社
豊比咩神社
式内社(名神大)「豊比咩神社」の論社は4社ある。久留米市上津、本山天満神社の境内社の「豊姫神社」。筑後川の畔、大城の「豊比咩神社」。高良山の対岸、水沼氏に因む北野の赤司八幡宮も古くは「豊比咩神社」であった。そして、高良大社に合祀された、高良山鎮座の失われた「豊比咩神社」。邪馬台国を御井のあたりと想起して、この域の女神群、蒲池比咩を卑弥呼の投影とし、豊比咩神を台与とみる説なども興味ふかい。


 さて、高良山のもうひとつの謎、「豊比咩命(とよひめ)」の存在がある。高良大社は「豊比咩神」を合祀する。縁起では「高良玉垂命、豊比咩神の二神を主神とし、左右の相殿に八幡大神と住吉明神を祀る。」とする。高良玉垂命を考えるうえで、豊比咩神の存在ははずせない。
 古く、名神大社「豊比咩神社」が、高良玉垂宮と並んでこの山に鎮座していたとされる。失火により今は高良大社に合祀されているという。

 伝承では、豊比咩命は高良玉垂命の妃であるという。古く、高良域での「日」の氏族と高木神氏族の交わりが、記紀神話に投影されたとすれば、高良玉垂命の妃、豊比咩命とは、高木神が天忍穂耳命に嫁がせた女(むすめ)の「萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)」ということか。
 英彦山域において、萬幡豊秋津師姫命の神霊は「鷹巣(たかす)の神」豊比咩命として、その神祇は香春あたりを経て、豊前に繋がっていた。
 香春の豊比咩命の宮は、鷹巣(たかす)の森に鎮座する「古宮八幡宮」。ここでの豊比咩命は「日」の神を象徴する銅鏡の化身。ここで鋳造された銅鏡は宇佐の放生会において、八幡神の正躰として宇佐八幡宮に奉納される。ゆえに豊比咩命は宇佐の元神とされる。
 そして、豊比咩命の宮、香春の古宮八幡宮が古く「阿曾隈(あそくま)の宮」と呼ばれた。豊比咩命はやはり阿蘇の「蒲池比咩(かまち)」に纏わるとみえる。蒲池比咩は肥(火)の宇土における金属精錬の神でもあった。

 「日(火)」の神祇、阿蘇の蒲池比咩の神霊は、高良域において玉垂媛神、そして豊比咩命ともされ、香春においては「日」の神、銅鏡の化身として「豊」の国魂の日輪神、豊日別神、そして、宇佐の比売大神にも繋がっていた。
 古社考証の書「神社覈録(じんじゃかくろく)」の高良大社の項に「高良は加波良(かわら)と訓べし。」とある高良と香春の拘わり。(*5)

香春1205
天忍穂耳命を祀る香春二ノ岳と豊比咩命を祀る三ノ岳。


 鎌倉期の元寇以降、八幡神信仰が隆盛となり、北部九州の神々は宇佐八幡宮の傘下に入り、神功皇后伝承や八幡神信仰を受け入れたとされる。

 高良大社の縁起は豊比咩命を神功皇后の妹であるとする。また、のちの時代、高良玉垂命ともされた武内宿禰は、壱岐真根子命の娘の豊子と結ばれ、高良大社の境内社には壱岐真根子命が祀られる。ゆえに豊比咩命とは、壱岐真根子命の娘の豊子の投影ともされた。

 が、高良玉垂宮では八幡神信仰隆盛の時代に、石清水八幡宮の拘わりで「高良玉垂宮縁起」が編纂されている。そして、その内で高良玉垂命自身が、三韓征伐に随行したという伝承や、妃の豊比咩命が神功皇后の妹とされること、そして、住吉明神との拘わりなどが付加されている。
 さらに高良神と武内宿禰の拘わりとは、高良玉垂命が「藤大臣」と称して三韓征伐に随行したとすることに由来している。

 高良山には山岳密教も持ち込まれ、高良神は権現ともされた。そのうえ八幡大神、住吉明神も配祀され、武内宿禰の拘わりまでも加わって、高良神はその系譜の複雑さをみせる。
 高良玉垂命とは誰かと、敢えて問えば「蒲池比咩」であり「景行天皇」であり、神話の系譜でいえば「天忍穂耳命」ということになるのであろうか。また、江戸期には「武内宿禰」であったということになる。

 注目すべきは、古く、高良域での「日」と「鷹」の神祇の交わり。「日(火)」の祭祀氏族、阿蘇の日下部祖族と高木神氏族の事象が、「日」の神、天照大神の御子の天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命との婚姻と同じ構造であり、記紀神話に投影された可能性。
 天忍穂耳命と萬幡豊秋津師姫命の御子、邇邇芸命が降臨する逸話を勘案すれば、神功皇后と武内宿禰の存在、そして応神天皇の東征の逸話も、その残影なのかもしれない。(了)


古代妄想。http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/参照
(*1)「九州古史譚1 古層の神々。」
(*2)「日(火)と鷹の神祇。高良の日下部氏族。」「矢の神祇。日田の靱編連。」「九州古史譚2 高木神氏族と狗人。」
(*3)「九州古史譚3 筑紫の五十猛神。」
(*4)「御手長の話。」「黒い神の系譜。」
(*5)「豊比咩命の系譜。」「鷹巣(たかす)の神。」


神社百景。「福博の神社」


箱崎3057
筥崎宮
福岡県福岡市東区箱崎
祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命 
式内社(名神大)筑前国一宮 旧官幣大社
宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡の一。延喜21年(921)に八幡神の託宣があり、筑前、穂波郡の大分宮より遷座されたことに始まる。海外防衛、武運長久の神。後世には足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など名だたる武将が参詣、武運長久を祈願して、宮は隆盛を誇ったという。

箱崎3051
本殿は元寇や戦国期の戦乱により荒廃。のち、大宰大弐、大内義隆により天文15年(1546)に再建。楼門は小早川隆景により文禄3年(1594)に建立。本殿、拝殿、楼門は国の重文。
境内の神木「筥松」は社名の由来。応神天皇が生まれたときの御胞衣(えな)を筥に入れ、この地に納めたしるしの松とされる。

箱崎3063
楼門の「敵國降伏」の扁額は、元寇の際に亀山上皇によって奉納された。醍醐天皇の宸筆とされる。

元寇、文永の役においては、筥崎宮においても戦闘が行われ、その際、兵火に罹った社殿が焼失している。
元軍は兵4万、軍船900隻で押し寄せたとされる。が、戦闘の翌朝には、元軍は忽然と博多湾から姿を消す。社殿を焼失させたことで、八幡神の怒りを買い、夜半、神風が吹いて、元軍を波間に沈めたと伝わる。以降、国難にうち勝った八幡神の神威により、筥崎宮は隆盛を誇る。

箱崎3089
石造一ノ鳥居。黒田長政により慶長14年(1609)に建立。筥崎鳥居と称される。国の重文。 

社殿からは博多湾岸、箱崎浜へ長大な参道が延び、4つの鳥居が直線に並んでいる。参道が指す先は奇しくも志賀島の叶崎、金印出土地。
楼門に掲げられた「敵国降伏」の扁額が睨む先は、参道の先、志賀島の叶崎から半島を経て、大陸の大都。
金印の出土に関しては、殆ど廃棄されたともいえる状況であった。金印はその昔、大陸から授与されたもの。筥崎宮の宝物でもあったものが、元寇の際の敵国退散祈願などで、みせしめに廃棄でもされたものでは、などと妄想する。




住吉3491 (1)
住吉神社
福岡県福岡市博多区住吉
主祭神 住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
式内社(名神大)筑前国一宮 旧官幣小社
全国二千の住吉神社の始源、古書に「住吉本社」とされる。創建は不詳であるが、縁起では黄泉から戻った伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの社地であり、住吉三神が生まれた地であることを始源として、神功皇后が渡海する際に祀ったものとされる。太古、この社地は那の津に突出した岬であり、神殿は海辺に鎮座して、社頭の潮入りの池をその痕跡とするという。
博多古図2
この社の絵馬に描かれた鎌倉期のものとされる博多古図。中央の入り江が那の津(冷泉津)、湾奥の那珂川の河口付近、木立ちが描かれた岬が社地。
この社地は、弥生中後期の遺物の包含層であり、社殿裏からは銅矛、銅戈が出土して、墓地以外に埋納された最も古い例とされる。住吉神社の祭祀が弥生期にまで遡る可能性は高い。

底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神は航海の神。「筒」とは星のことで、三つ星の神格化とされる。海人の三つ星は天帝の星、北極星を示す上台、中台、下台の「三台星」。北斗七星の外側にある三つ星であり、「三筒」とも呼ばれる星である。
上海の南、浙江省に天台山が在る。三つの峰をもつ天台山は、古く、神仙思想の大元。三台星の思想はこの山で生まれた。三つ星を宗紋とするのちの天台宗もこの山で生まれている。江南の海人にとって三台星は大切な星。夜、海を渡る船は北極星を目印にする。北方の漢人に追われた江南の海人は、東シナ海で黒潮に乗って北上、列島に渡る。
古く、この社の社家、佐伯氏(さえき)は大伴氏族とされ、佐伯部を率いて、隼人と共に宮門守護として朝廷に仕えた。その名は外敵を「遮(さへ)ぎる者」という意とされる。殊に天帝の守護、三台星の氏族。
また、神話での大伴遠祖の天忍日命と黥利目(入墨)の大来目命(天久米命)との関係が、海人氏族の拘わりを思わせる。天帝を守護する三台星とは、海人氏族の象徴でもあった。古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「神紋の話。」参照
 
写真の本殿は仏教以前の古い建築様式を伝える「住吉造」。黒田長政が元和9年(1623)に再建したもので、国の重文。






櫛田0007a
櫛田神社
福岡県福岡市博多区上川端町
祭神 大幡主命(大若子命)、天照皇大神、素盞嗚大神
博多総鎮守 県社
博多津の氏神で、天平宝字元年(757)の創建とされる。多くの櫛田神社は櫛名田姫を祀るが、この社は「大幡主命」を主祭神とし、社伝によれば、伊勢、松坂の櫛田神社(祭神、大若子命、櫛玉姫命)からの勧請とされる。
配神の天照皇大神は一緒に同社より勧請されたもので、祇園神、素盞嗚大神はのちの時代、京都の八坂神社よりの勧請。

大幡主命は垂仁天皇の頃、越(北陸)で賊を退治した神とされ、佐渡の式内社「大幡神社」に祀られる神。その神が何故、博多津の氏神とされたのであろうか。
佐渡の一ノ宮「度津(わたつ)神社」の祭神が五十猛神であった。その社名は綿津見神(わたつみ)に纏わる。
そして、博多湾岸の海人、安曇氏族の祖神、磯武良(いそたけら)が、五十猛神(いそたける)と音を同じくして同神とする説がある。
安曇海人は「越」の中枢、能登を中心に氏族名や、本拠の志賀島由来の地名を残して、その移動の記憶をみせる。能登の羽咋郡、志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿波。そして佐渡の鹿伏や、越より内陸に遡った信濃の安曇野や麻績。
また、越後国一宮の「弥彦神(やひこ)」は天香具山命ともされるが、前述の佐渡の「度津神社」が弥彦神社の元社ともされ、弥彦神(やひこ)は「度津神(五十猛神)」と同神ともされる。弥彦神(やひこ)の音は、五十猛神の別名「大屋毘古神(おおやひこ)」と重なる。大幡主神は安曇海人が足跡を残した「越」において、博多湾岸の海神、綿津見神や筑紫神、五十猛神と重なっている。

そして、大幡主命の勧請元とされる伊勢、松坂の櫛田川流域で櫛(くし)の神、大幡主神を祀る「度会(わたらい、磯部)氏」が、綿津見(わたつみ)神に纏わり、安曇氏と同族ともみえる。伊勢の麻積や鹿海、対岸の渥美(あつみ)も安曇由来の地名。さすれば、安曇海人に纏わる大幡主命が、故地、博多津の氏神とされたのも納得できる。古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「九州古史譚3 筑紫の五十猛神。」「越の海人。」参照

平安末期に平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮(祭神、櫛名田姫)を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したもので、元は櫛名田姫を祀っていたとする説も興味深い。






警固3861
警固神社
福岡県福岡市中央区天神
主祭神 警固大神(神直日神、大直日神、八十枉津日神)
県社
仲哀天皇9年の創建とされる。社伝では神功皇后の三韓征伐の際、外厄を祓い、皇后の船団を守護して勝利に導いた警固大神を福崎(鴻臚館、福岡城跡)の地に祀ったのが始まりとされる。福岡城築城以降、現在の地に移されたという。「警固」はかつて鴻臚館にあった「警固所」に由来するという。

祭神の神直日神、大直日神、八十枉津日神は、穢れを祓う祓戸(はらいど)神。「倭姫命世記」は伊勢の皇太神宮の荒魂、八十枉津日神を別名、「瀬織津比咩神」であるとする。そして瀬織津比咩は天照大神の荒御魂ともされる。摂津、西宮の「廣田(ひろた)神社」の祭神は天照大神荒御魂であるが、戦前までは瀬織津比咩を祭神としていたという。
福岡にはもうひとつの「警固神社」が在る。那珂川中流域の旧上警固邑(警弥郷)の警固神社である。この社も警固大神として神直日神、大直日神、八十枉津日神の三神を祀る。警固大明神記録によると、天神に鎮座する警固神社は、この上警固邑に在ったものを神功皇后が遠征の際に福崎に勧請したとする。
そして、この上警固邑の警固神社を奉斎するのが廣田(ひろた)氏族であった。現在も社の氏子総代にその名を連ねる。この廣田氏族は往古よりこの地に在って、瀬織津比咩ともされる警固大神を祀り継いでいる。摂津の廣田神社の地にも「廣田連」が在る。廣田氏族を通じて、筑紫と摂津の祓戸神の祭祀が、同じ信仰体系をみせる。外厄の祓戸神、警固神とは、古く、国家神としての祭祀ともみえる。
古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「神社信仰の話。警固大神の場合。」参照





鳥飼6258
鳥飼八幡宮
福岡県福岡市中央区今川
祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命
由来によると三韓征伐より戻った神功皇后は、鳥飼村平山の地で人々のもてなしを受ける。皇后は喜び、胎内の皇子(応神天皇)の将来を祝い、この地に留まって人々に杯を振る舞ったという。のち、神功皇后ゆかりの地に宮を建て、「若八幡」を祀ったものが鳥飼宮の発祥とされる。

古く、草香江の支配氏族として「神功皇后、三韓征伐より帰朝の時、御餞を奉りし鳥飼氏。」とされる鳥飼(とりかい)氏族の存在がある。鳥飼部が鳥を飼育し、朝廷などに献上した大化前代の品部の一とされ、雄略天皇の頃に鶏卵鶏肉を食用とした養鶏専業の民として、鳥飼部が存在したともされる。
宮は代々この鳥飼氏族が奉祭していたが、戦国の天正期、太宰府岩屋城の高橋紹運の夜襲を受けた、鳥飼宮内少輔氏勝父子が滅んでいる。その後、平山式部丞重道が鳥飼浜に宮を遷し、寛永2年(1625)に氏子により新たに社殿が建立されたという。

境内の黒殿神社に、鳥飼氏の祖、「鳥飼黒主」と「武内宿禰」が祀られている。武内宿禰は各地の黒男神社に祀られる「黒」の神とされる。鳥飼黒主を祖とするこの鳥飼氏も武内氏族であろうか。戦乱の時代に香椎宮大宮司の武内氏の一族がここの宮職を司どっている。
古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「黒と白。」「那ノ津の犬飼と、草香江の鳥飼。」参照





壱岐5422
壱岐神社
福岡県福岡市西区生の松原
祭神 壱岐真根子命
生の松原の松林の奥に鎮座する。祭神の壱岐真根子命は、武内宿禰の身代りとなって無実の罪にて死んだ忠臣。
生(いき)の松原の地名は、神功皇后が松の枝を逆に挿し、戦勝を占った折、その枝が生きて栄えたことに因るとされる。が、「壱岐(いき)」との拘わりが気になる。生の松原に、壱岐真根子命、この浜の後背にも壱岐(いき)地名が在る。
壱岐5425
松林を抜ける参道は海より参拝する。海の参道は壱岐(いき)に繋がる。





飯盛47
五十猛(いそたける)神を祀る飯盛神社中宮

飯盛神社
福岡県福岡市西区大字飯盛
主祭神 上宮、下宮 伊奘冉尊 中宮 五十猛神
早良郡総社
早良の神奈備、飯盛山を神域とし、上宮、中宮、下宮を鎮座させる。由来では天孫降臨の折、天之太玉命が伊奘冉尊(イザナミ)をこの地に祀ったことを始まりとする。また、神功皇后が三韓より凱旋の折、飯盛山の伊奘冉尊(イザナミ)に相対させ、若杉山に太祖宮、伊弉諾尊(イザナギ)を祀ったとする。貞観元年(859)に飯盛山頂の上宮に伊奘冉尊を祀り、山腹の中宮には伊奘冉尊の孫神、五十猛神を祀り、下宮を社地に祀ったとされる。

飯盛山の麓には「吉武高木遺跡(早良王墓)」が広がる。豊富な青銅の武器、玉類と共に多鈕細文鏡を出土させた大型の木棺墓は、国内最古の王墓とされ、奴国や伊都国に先駆けた日本最古の「クニ」の存在が確認された。
出土した多鈕細文鏡などは韓半島に起源をもち、太古のこの地の王は韓半島と強い繋がりを持った人物であるとされた。

飯盛山腹に祀られる「五十猛(いそたける)神」は天孫以前の神。素戔嗚神とともに新羅の曽尸茂梨に天降り、のちに列島に渡ったとされる。韓半島から渡来った人々は、この地に自身らの神を祀り、民を包含し、また連従させて太古のクニをつくったものであろうか。
飯盛41
吉武高木遺跡(早良王墓)から望む早良の神奈備、飯盛山。
 
古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「筑紫の五十猛神。」「古代早良王国の謎。」参照






香椎53
香椎宮
福岡県福岡市東区香椎
主祭神 仲哀天皇、神功皇后
官幣大社 勅祭社
社伝では仲哀天皇9年(200)、橿日行宮(かしひ)で急逝した仲哀天皇の神霊を神功皇后が祀ったものが起源とされる。香椎廟とも呼ばれ、古く、朝廷の崇敬厚く、伊勢神宮、氣比神宮などと共に本朝四所と称された。現在でも宮内庁より勅使が遣わされるという。

宮の裏手には古宮跡や仲哀天皇の本営跡、武内宿禰が橿日在陣中に居住したとされる武内屋敷、宿禰の長寿にちなんだ不老水などの旧蹟が散在する。また、後背丘陵からは「御飯(老)ノ山城跡」が発掘され、戦国期、島津氏の筑前侵攻の際に、旧大宮司家の武内氏続が立て籠もったという記録。山麓には中世の居館跡なども発掘され、中国産磁器など多様な出土品などから、武内大宮司家あたりの栄華を彷彿とさせる。
香椎47
回廊が延びる中門。香椎造りの本殿は国の重文。
香椎48
神功皇后ゆかりの神木、綾杉。





志式i982
志式神社
福岡県福岡市東区奈多字宮山
祭神 火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十城別王、稚武王、葉山姫
奈多の松林の中に鎮座する。由緒では神功皇后が三韓征伐の守護を祭祀し、吹上の浜にて神楽を奏したとされ、のち二社を合祀して「志志岐三良天神」と称し、明治維新後、「志式神社(ししき)」とされたという。火難、盗難、災厄を除け、家運隆盛、また安産の神として信仰されるという。

祭神の「火明神(ホアカリ)」は天火明命。天忍穂耳尊と高木神の娘、萬幡豊秋津師比売命との子神。瓊瓊杵尊の兄で、先代旧事本紀では饒速日命と同一神とされる。「火酢芹神(ホスセリ)」とは火須勢理命(火闌降命)。瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子神。木花開耶姫が火中で生んだ三神の第二子、兄が火照命(海幸彦)で、弟が火遠理命(山幸彦)。
「豊玉姫神」は海神、綿津見神の娘。前述の瓊瓊杵尊と木花開耶姫との子神、火遠理命(山幸彦)と結ばれ、鵜茅不合葺命を生む。この三神の組み合わせはちょっと不思議。合祀の拘わりか。

そして、十城別王(そきわけ)、稚武王(わかたけ)、葉山姫の組み合わせが興味深い。十城別王、稚武王は兄弟で、日本武尊の子。異母兄である仲哀天皇の九州遠征や神功皇后の三韓征伐に参加している。
神功皇后の凱旋後、「十城別王」は平戸にて半島への警護を命ぜられ、平戸島の南端、宮ノ浦の「志々伎神社(しじき)」に祀られる。一方、「稚武王」は呼子、加部島の「田島神社」に祀られる。十城別王の志々伎神社を「下松浦明神」と称し、田島神社を「上松浦明神」として相対させ、十城別王と稚武王は共に西海の孤島の神となっている。
平戸の「志々伎神社」は古く、志々伎山なる尖峰を神体とし、航海の目印とした山アテ神。本来、王族が祀られるような場所では無い。そこに何らかの異心を感じる。神功皇后は、応神天皇の叔父となるこの兄弟を切り捨てたものか。
もう一人の祭神、「葉山姫」に関して、日本書紀によると、忍熊王が軍を率いて明石で待ち構えていることを知った皇后は迂回して難波に向かう。が、船が進まないため占うと、天照大神の神託にて「わが荒魂を廣田国(摂津)に祀るがよい」とあり、皇后は山背根子の娘、葉山姫に天照大神の荒魂を廣田に祀らせる。
これらの逸話の背景には、応神天皇即位の秘密が隠されているのか。興味は尽きない。





志賀2
志賀海神社
福岡県福岡市東区志賀島
祭神 綿津見三神(表津綿津見神、仲津綿津見神、底津綿津見神)
式内社(名神大) 旧官幣小社
のちに海人の宗とされた阿曇氏の祭祀の地、博多湾口の「志賀島」に鎮座する、全国の綿津見神社の総本宮。代々阿曇氏が祭祀を司る。創建は不明。

綿津見の「ワタ」は古代朝鮮語の海「パタ」に由来するとも。綿津見三神は韓半島との拘わりの中で、海人の信仰から生まれたともされる。神功皇后の三韓征伐の際には、阿曇氏の祖神、阿曇磯良が舵取りを務めたという。阿曇海人は韓半島との海路を支配した。

前掲の櫛田神社の項において、博多津の氏神とされた大幡主命が、越や伊勢において綿津見神と重なり、そのうえ、阿曇氏の祖神、磯武良(いそたけら、阿曇磯良)が半島神、五十猛神(いそたける)と音を同じくして同神ともみえていた。確かに、阿曇海人は、越や伊勢に氏族名や、本拠の志賀島由来の地名を残し、また、常陸の鹿島神宮や、奈良の春日大社が鹿を神使として、鹿神を通じて藤原氏(中臣氏)が、阿曇氏族との拘わりをみせる。
八幡愚童訓に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて。」とされ、阿曇磯良が藤原氏(中臣氏)の神である鹿嶋の武甕槌神あたりと同一であるという。阿曇海人の移動範囲は計り知れないものがある。
志賀isyo
神功皇后の三韓征伐の折、阿曇磯良が亀に乗って現れた故事に因む遥拝所の亀石。氏族が渡った東の海を遥拝する。
志賀島967
神紋は住吉神社や八幡宮と同じく三つ巴、すべて海人に拘わる信仰。また、鹿を神の使い、導きの神としたのは大陸南岸の海人、越の民であり、北方の漢人に追われた種。百越の倭人と呼ばれるものは、列島から韓半島南岸に在った。写真は中央、博多湾口の志賀島、右に能古島。
古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「鹿の話。」「安曇と五十猛神。(続、筑紫の五十猛神。)」参照




宇美8
宇美八幡宮
福岡県糟屋郡宇美町宇美
祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命、住吉大神、伊弉諾尊
県社
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途に、応神天皇を産んだ地とされ、敏達天皇3年(574)に天皇を祀ったものとされる。宇美の地名も「産み」に由来し、安産の神として信仰されている。
境内には「子安の木」や「産湯の水」、「子安の石」など、神功皇后の出産伝承に纏わる神蹟が多く、また、樹齢二千年ともされる「湯蓋の森(写真)」や「衣掛の森」などの老樟が生い茂る。
宇美i1
社地近辺の光正寺古墳。3世紀後半、県内の前期古墳の中でも最古期のものとされる。また、糟屋郡内最大の前方後円墳であることから被葬者はこの域を支配した豪族または王の墓とされる。不彌国王のものか。





猪野00584
伊野天照皇大神宮
福岡県糟屋郡久山町大字猪野
祭神 天照大神、手力雄神、萬幡千々姫命
県社
深い森の中にひっそりと佇ずむ宮。中世、豊丹生氏(ぶにゅう)による祭祀とされ、福岡藩3代藩主黒田光之は、延宝5年(1677)、豊丹生宮司と工匠を伊勢に派遣して、神殿から鳥居に至るまで伊勢神宮に模して造らせたという。
猪野00589
石段を上ると神秘な空間に、古神殿跡が現れる。





春日神社16
春日神社
福岡県春日市春日
祭神 天児屋根命、武甕槌命、経津主命、姫大神
県社
古く、中大兄皇子が天児屋根命をこの地に祀ったことに始まるとされる。のち、神護景雲二年(768)、大宰大弐、藤原田麻呂が大和の春日大社より武甕槌命、経津主命、姫大神の三柱を迎え祀ったという。

飛鳥期の660年、百済が唐と新羅によって滅ぼされるや、斉明天皇は百済を援けるために中大兄皇子を伴って西下、那ノ津に至り、「磐瀬行宮」に入っている。朝倉橘広庭宮での斉明天皇の死後、中大兄皇子は百済救援軍を整え、韓半島に送り出している。中大兄皇子がこの地に「天児屋根命」を祀ったのは、その折であろうか。

「磐瀬行宮」の所在は、未だに確定されていないのであるが、福岡市南区の高宮の地、大楠に「磐瀬川」「磐瀬公園」の名があり、傍の高宮八幡宮の縁起によると「天智天皇の御代、天皇が磐瀬宮に在った折、神功皇后の縁(ゆかり)の地、宮の尾に八幡神を祀った」とされ、社地の「高宮」や「宮の尾」の地名が磐瀬行宮に因むものとも思わせる。
また、宮の尾の南麓、旧野間中村町で、6世紀後半から7世紀に到る大型建物跡が出土して、磐瀬行宮に由来するものとも思わせた。高宮やこの社での中大兄皇子の存在は、夢を与えてくれる。
春日神社20 (2)
境内に生える11本の樟は春日の杜と呼ばれ、天然記念物に指定されている。





現人3321 (2)
現人神社
福岡県筑紫郡那珂川町仲
主祭神 住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
岩戸郷総社 元住吉
由緒には「伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて、禊はらい給ひし時に生まれし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社。」と記され、元住吉といわれ、博多の住吉神社の元宮であるとする。
そして、福岡藩の国学者、青柳種信は、太古の那ノ津はこの地まで深く彎入し、住吉三神はこの地の洲に生まれたともする。現人神(あらひと)とは神功皇后の軍船の舳先に人の姿にて現われし住吉神。玄界の荒海を鎮めて、皇后の軍の進路を示したとされる。
現人77
社地の上手に、「裂田の溝(さくたのうなで)」と呼ばれる日本最古の灌漑用水が在る。日本書紀に、この水路は神功皇后が三韓征伐の際、現人神社の神田に水を入れるために造ったとの記述がある。この施設が弥生期にまで遡るという説もあり、興味深い。古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「那珂川古譚。」参照





伏見神社i3
伏見神社
福岡県筑紫郡那珂川町山田
主祭神 淀姫命
那珂川が狭隘な谷を抜け、平野が開ける地に鎮座する。ここは前述の灌漑水路、裂田の溝の取水口でもある。
この宮の主祭神は「淀姫命(よどひめ)」。由緒によると神功皇后が那珂川の守り神として、肥前、川上の肥前国一宮、「與止日女神社(河上神社)」に祀られる嘉瀬川の神、「與止日女(よどひめ)」と、京都伏見の御香宮を合祀、「伏見大明神」としてここに祀ったという。
伏見神社97
この宮では「鯰」が神使とされ、宮前の淵の鯰は平時、姿を見せぬが天下の変事に現れるという。大阪夏の陣や島原の乱、日清戦争、日露戦争などの折に現れたという。また、ここの鯰は神功皇后の三韓征伐の折、群をなして船を抱き、水先案内として戦勝に導いたという。社殿には鯰の絵馬が奉納される。
肥前、川上の與止日女神社でも「鯰」は神使とされ、嘉瀬川の民は鯰を眷属として敬う。鯰をトーテムとする有明海の女神、與止日女神は背振山地を越えて、この那珂川の守り神となった。

鯰をトーテムとする比売神の連鎖と呼ばれるものがある。八代海の蒲池比咩あたりに始まり、有明海沿岸で川上の與止日女(世田姫)、筑後、高良域で玉垂媛、そして鷹巣神、豊比咩命などに習合し、異名似体の女神群を生む神祇。その足跡は、太古、中南九州の「狗人」が有明海沿岸から、御井、そして豊前へと、領域を拡げた痕跡。
また、彼らは鉄器を使った水路掘削の民でもあった。阿蘇や山鹿、そして、この裂田の溝など「蹴破り神話」とも呼ばれる水路掘削伝承が残る地には、「鯰」の伝承が伴う。古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen「那珂川古譚。」「江南の女神。連鎖する九州の比売神信仰。」参照




神社百景。「糸島の神社群」


高祖神社7
高祖神社
福岡県糸島市高祖
主祭神 彦火火出見命、玉依姫命、息長足姫命
怡土郡総社 県社
高祖神社は神代の創建とされ、糸島平野の東端に聳える高祖山中麓に鎮座する。古く、高祖山は怡土(伊都)の神奈備であったろう。
平安期編纂の三代実録に 「元慶元年(877年)、高磯比売神に従五位下を授ける。」と記され、高磯比売神とは高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足姫命を祀るとあり、この「高磯比売神(たかす)」を、この社の本来の祭神とする説がある。
高祖、高磯が「たかす」とされることで、高磯比売神を「鷹巣(たかす)の神」とすれば、豊日別神(萬幡豊秋津師姫命)ということになる。境内社に兄神の思兼神を祀ることも興味深い。(神々の成立の謎「九州北部域の高木神。英彦山神宮と鷹の神祇」参照)
そういえば「イ」地名の連鎖なるものが、ここ伊都に始まり、香春あたりを経て、豊前にまで繋がっていた。
高祖山97
高祖山。麓の平野は三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、そして平原遺跡と、弥生王墓が点在する伊都の中枢。






志登3335
志登神社社頭
志登3340
志登神社
福岡県糸島市志登
主祭神 豊玉姫命
糸島唯一の延喜式内社 志摩郡総社
古く、社地はかっての古今津湾の岸辺であり、海神の国から帰った山幸彦(彦火火出見尊)を追ってきた豊玉姫が上陸した地であるという伝承も。また、社地周辺は弥生前、中期の支石墓が散在する聖域でもある。
志登3341

今津湾3958
古今津湾の痕跡を残す今津潟。社地は正面奥。伊都の港湾域であったともされる。また、対岸、元岡の遺跡地は大量の弥生土器や祭祀に拘わるとみられる木製品などが多数出土して注目される域。






桜井神社1
桜井神社
福岡県糸島市志摩桜井
祭神 神直日神、大直日神、八十枉津日神
黒田藩崇敬社
この社は古く「與止日女(よどひめ)宮」であった。楼門には「正一位與止妃大明神」の扁額。與止日女は肥前国一宮、川上の「與止日女神社」の神。肥前の荒ぶる神、嘉瀬川の川神でもある。
祭神の神直日神、大直日神、八十枉津日神は穢れを祓う祓戸(はらいど)神。「倭姫命世記」は伊勢の皇太神宮の荒魂、八十枉津日神を別名、「瀬織津比咩神」であるとする。瀬織津比咩神も祓戸神。また川神であり、桜木神、水神、井泉神でもある。ここの社名、桜井の由来が「桜木の株より水出し井泉。」であった。
ここは與止日女神と祓戸三神、瀬織津比咩神が習合する不思議の宮。(古代妄想http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen筑紫の瀬織津比咩。参照)
 
本殿の後方には奥宮の岩戸宮。古墳の横穴式石室とみられる岩屋が祀られるという。そして裏宮のご神体は志摩随一の名所、二見ヶ浦の夫婦岩。 
桜井11
少し離れた光寿山の麓に、伊勢皇大神宮の分霊を祀る「桜井大神宮」が鎮座する。美しい神明造りの社殿が佇む。與止日女神の神託で建立されたという。






草場白木社3988
草場の白木神社

白木神社群
福岡県福岡市西区西浦 白木神社
福岡県福岡市西区草場 白木神社
福岡県糸島市王丸 白木神社
福岡県糸島市潤 潤神社(白木神社)
糸島には白木神社が多い。西浦、草場そして、王丸。また、潤神社も古くは白木神社であった。各集落の産土神、白木神社にはすべて「五十猛神(いそたける)」が祀られている。

国生み神話において、筑紫の国を白日別(しらひわけ)としている。そして、五十猛神は筑紫の国魂、白日別神として「筑紫神社」に祀られている。
五十猛神は素戔嗚尊の子神で、ともに新羅の曽尸茂梨に天降り、のちに列島に渡ったとされる。白日別の「白」は新羅や斯蘆に由来する。「白」の神とは五十猛神、「白木(しらき)」とは新羅か。(神々の成立の謎「筑紫の五十猛神。筑紫神社」参照)
草場白木社3989
五十猛神(いそたける)は、今は「紀伊」に在るとされる。紀伊国一宮、「伊太祁曽神社(いたきそ)」がそれである。かの地には古く、「伊都(いと)郡」の地名をも残し、民の移動の痕跡とも思わせる。







大祖神社
大祖神社
福岡県糸島郡志摩町芥屋
祭神 天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、鵜鵜草葺不合尊、豊玉姫命、塩土老翁神など
この社は名勝、芥屋大門の裏手に鎮座する。芥屋大門は日本最大の玄武岩洞、玄武岩の柱状節理が海上にそそり立つ。社殿は大門を拝するように配置され、大門を神体とするとも思わせる。
祭神の一に塩土老翁の存在がある。芥屋は塩土老翁の里、塩土老翁の降臨伝承を残し、芥屋の集落には氏神、塩土神社が鎮座する。
塩土老翁は製塩の神、潮流を司る航路案内の神でもある。神話では瓊瓊杵尊に目的の地を教え、山幸彦を海神の宮に導き、神武天皇には美(よき)国を示し、東征を決意させる神。
糸島半島の西の突端、玄界灘に突き出た高さ60mの岩柱は、航海の格好の目印となったであろう。江戸期には社地付近に福岡藩の遠見番所も設置されている。大門を航路案内の神、塩土老翁の信仰と重ねたものともみえる。
 
傍には禊祓に纏わるともされる「ハレドン(祓戸)」地名を残す。伊邪那岐命の禊祓の地、筑紫の日向の橘の小戸(おど)とはこの大門(おおと)か。また、太祖ではなく「大祖」であることが興味深い。
大祖01151
傍の海岸には海を遥拝するように鳥居が立つ。






宇美12
長野 宇美八幡宮
福岡県糸島市長野
祭神 気比大神、応神天皇、神功皇后、玉依姫など
長野庄鎮守 県社
縁起によると、古く、神功皇后の渡航の船上に新羅の神が現れ、皇后の国土を守護せんと宣託する。皇后は帰朝後、当地にてその祭祀を行う。のち、仁徳天皇の治世に平群木菟宿禰の子、博公を神主としてその神蹟に社を建て、気比大神(天日矛)を祀ったとする。
また、称徳天皇の治世に、応神天皇、神功皇后、玉依姫の神霊を勧請し、社名を宇美八幡宮としたとも。平安期に糟屋、宇美八幡宮の荘園であったという記録もある。古く、大社であったされる。
江戸期には中津藩領であり、怡土郡中津藩領12村の総社とされた。当時は神仏混淆で真言宗長岳山瑞雲院があり、宇佐神宮との関係も指摘される。この宮には複雑な歴史が重なっているようだ。

 宮は長嶽山なる丘陵上に鎮座している。丘陵上には10数基の古墳が並び、その最も奥に仲哀天皇の陵とされる帆立貝式前方後円墳があり、墳丘上に石祠が祀られている。
縁起によると、神功皇后は武内宿禰に命じ、香椎に在った先帝の棺をこの山に収めて、陵墓としたという。宮司の武内氏は武内宿禰より数えて80代目の裔とする。

宇美5
後方の丘陵が社地。稜線上は長嶽山古墳群とされ14基の古墳が築かれている。社前の長野宮ノ前支石墓群は、総数40基にのぼる弥生初期の大墳墓群。ここは太古より霊地とされた域。

宇美神社6
参道へは川から石段を上がる。古くは、川から参拝していたようだ。因みに社前の川は「白木川」。この域はあくまで新羅に纏わる。ここは古く、気比大神(天日矛)の地。そして、筑前国風土記逸文は伊都の県主の祖、「五十迹手(いとて)」とは天日矛の苗裔であるとする。






細石神社4
細石神社(さざれいし)
福岡県糸島市三雲
祭神 磐長姫命、木之花開耶姫命 
古く、佐々禮石神社と記された。祭神の磐長姫命と木之花開耶姫命の姉妹は大山祇神の女(むすめ)。ともに瓊瓊杵尊の許に嫁いだ。
社地は古代、伊都国の中枢。社殿の背後には弥生王墓「三雲南小路遺跡」が位置し、この宮は王墓の拝殿とも、王宮であったとも語られる。その三雲南小路遺跡に関して、在地の考古学者、原田大六は1号甕棺墓は武器類が多く、2号甕棺墓は玉類が多いため、王と王妃の墓であろうとしている。三雲南小路遺跡は瓊瓊杵尊と木之花咲耶姫の墳墓という説。

また、古く、高祖神社から細石神社に神輿が向かう神幸があり、その拘わりから、前述の「高磯比売神」をこの社とする説がある。この宮は東を向き、正対する高祖山中麓の高祖神社と向き合って、拘わりをみせる。(wikipediaより)




 

産宮神社9
産宮神社
福岡県糸島市池田
祭神 奈留多姫命、鵜鵜草葺不合尊、玉依姫命
社伝によれば、奈留多姫は懐妊に当たり、胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命の前において、「月満ちて生まれん子は、端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん。」と誓い、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、産宮と称えられ安産守護の神として祀られたという。
記紀では綏靖天皇の母は「媛鞴五十鈴媛命」であり、大和で結婚し、綏靖天皇を産んでいる。はたして奈留多姫命とは誰であろうか。(wikipediaより)


糸島には当に不思議の宮が多い。



記事検索